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セカンドラブ・シンドローム

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前編




「タクシー!」
 左からヘッドライトが近付くのを見て、もはや反射的に右手を突き上げて叫ぶ。しかしまたもや空車ランプは消えていた。にべもなく通り過ぎていく。
「ああ、畜生」
 僕はうんざりしてため息を吐いた。酔っているせいで、吐いた息が熱いのが分かる。もう何台見送ったか思い出せなかった。なんでこんな事してるんだ僕は、と嫌になる。傍目から見たら今の僕はつまらない意地を張る偽善者かも知れない。そりゃあ、もう諦めて家に泊めてしまおうかと何度も思った。だけれど、それを心のある部分が頑なに拒んでいた。最後の一線は意外に頑強だった。

 僕はガードレールを跨いで歩道に戻り、居酒屋の階段にちょこんと腰掛けている夏菜子の前に膝をついた。
 夏菜子はうつむいていてどんな顔をしているか伺えないが、セミロングの髪からは真っ赤になった耳が覗いていた。
 無理もない。夏菜子のように小柄な女の子にとって、瓶ビール二本にカクテル四杯というのはあまりにも無茶な酒量だった。今日に限ってどうしてこんなに飲んだのか、理由が何となくわかる気がして心苦しかった。それはきっと僕の自意識過剰ではないだろう。
「夏菜子」
 名前を呼ぶと彼女は、
「んん」
 という湿度の高いうめき声で返事をした。
 肩に手を掛けたら薄手のブラウス越しに、僕の手のひらよりもさらに熱い、夏菜子の体温が伝わってきた。
「夏菜子ごめんな、なかなかタクシー捕まらないんだよ」
 らいようぶ、と夏菜子は答えた。大丈夫そうには見えないんだけどな、と僕は思った。彼女の吐息からはまだキャラメルのにおいがしていた。

 僕と夏菜子は恋人同士ではない。
 夏菜子は大学の後輩で、僕にとって最も親密な異性だ。恐らく彼女も僕の事を同じように位置づけているだろう。
 うちの大学では一〜三年生が同じ講師のゼミに入る慣習になっている。三島由紀夫研究、というつまらないテーマで同じチームになったのが、僕らの馴れ初めと言うことになる。
 文学ってのは読むものであって、研究されるために存在するんじゃない、と言う意見において僕たちは同意した。それも手伝って、サシで飲みに行く関係になるまで時間はかからなかった。
 彼女は僕が「ビートルズ」と言えば「イエロー・サブマリン」と答えたし、「ニーチェ」と言えば「偶像の黄昏」と答えた。ためしに「大相撲」と言ってみたら「武蔵丸が休場だね、つまんない」と唇を尖らせた。そんなふうに会話の相手としては満点以上だったし、器量だって「上の中」と言って言い過ぎではないはずだった。何より細やかな気配りの出来る優しい子だった。
 年がら年中キャラメルを頬張っているところとか、えせアジアンなファッションセンスは同性に嫌われそうな不思議ちゃんだったが、それだってこんな子がもしも自分に好意を持ってくれているんだとしたら、それを拒む理由なんてどこにも見つからないはずだった。けれど……。

「せんぷぁいっ」
 夏菜子がいきなりがばっと顔を上げた。
 呂律も回ってないし、目が据わっている。
「ん、どうした? 気持ち悪いか?」
 僕は無理矢理そんな台詞を吐いた。夏菜子が訴えたいのはそんな事じゃないとは分かっているのだけど。
 案の定、夏菜子は批判的に眉を顰めた後で
「冷静れすよね、せんぷぁいは……」
 と言って目を逸らした。彼女は不機嫌になると目を合わせてくれない。
「酔っぱらった女の子をお持ち帰り〜、なんてことはしないんらよね」
 彼女らしくない、陰険な言い方だった。けれどそうさせたのは他でもない、僕だ。そう思うと憂鬱になった。
「しっかりしろよ……」
 なんとか言葉を搾り出した。どんな感情も宿っていない、抜け殻の言葉だ。
 本当は分かっていた。夏菜子はしっかりしている。その上で、僕にチャンスをくれている。そう飲めない酒を飲んで、嫌らしい自分をさらけ出して、そうまでして僕にきっかけを提示しているのだ。
「……タクシー、拾ってくるから」
 僕は逃げるように立ち上がった。
 いや……正確には、そうしたつもりだったのだが夏菜子に袖口を捕まれ、強引に引き戻されてしまった。
 目の前には夏菜子の紅潮した顔があった。アルコールで目に掛かっていた涙の膜が、一層厚くなっていた。それが街灯の光を乱反射する。綺麗だ、とこんな時ながら思ってしまった。
「先輩、」と夏菜子が今度は努めてしっかり発音した。「私だって、子供じゃないですから」
 来るべき時が来てしまった、と僕は意識した。
「先輩と遊びで付き合ってるんじゃないんです。私には私なりの打算も、狙いもあってこうやって飲みに来たり、してるんです」
「……ああ」
「それとも先輩は、ただ単にゼミが一緒で気が合うからって女の子を午前二時まで連れ回すの?」
 肯定も否定も僕は出来なかった。ある意味ではYESだし、ある意味ではNOだった。彼女は僕から視線を離さなかった。瞳にこめられた力が僕を硬直させた。
「私が先輩の彼女になる事は、叶わない夢ですか? 私はとんでもない突飛な願いを持ってしまったのかなあ? だったら今すぐに教えて欲しい。忘れる努力はするし、少なくとも、銅像か何かを誘惑してうまくいかなくて、つらくてつらくて毎晩のどが痛くなるまで泣き明かすみたいなみっともない状態からは抜け出せるから」
 叫ぶように言ってしまうと、夏菜子の瞳からは表面張力を凌駕した水滴がぼろぼろと溢れ出た。濡れた唇が震えていた。
 夏菜子の、意を決した告白だった。僕にとっては最後のチャンスだった。
「夏菜子……」
 それでも僕は何も言えなかった。ただ夏菜子が痛々しくて、不甲斐ない自分が情けなかった。

 ……夏菜子と付き合う。
 現実の問題としてそんな事を考える度に、僕はある場面を思い出す。
 故郷の小さな駅。
 待合室は、卒業証書の筒を持った学生たちで賑わっている。
 僕は息を切らして探している。
 彼女を。
 そして見つける。
 今にも改札を抜けようとする後ろ姿。
 声をかければ、振り向いてくれただろう。
 けれども僕はそうしなかった。
 いや、出来なかった。
 怖かったのだ。
 失敗も、成功も。

 またタクシーのヘッドライトが近付いてくるのを合図に、僕は立ち上がる。
「ちょっと先輩、話を……」
 夏菜子の抗議は聞いていない振りをした。
「タクシー!」
 今度は成功だった。数メートル先で止まったタクシーの、後部座席のドアが自動で開く。
「夏菜子、ほら」
「えっ……えっ?」
 僕は強引に千鳥足の彼女の腕を引いて、タクシーに乗せた。運転手に彼女の利用駅名を伝えて、五千円札を渡す。
「気をつけてな」
 そう言ってドアを閉めた。
 その間夏菜子は、赤かった顔を蒼くしてじっとうつむいていた。僕の方を見ようともしなかった。僕は彼女の最後の勇気を踏みにじってしまった。次は……ない。
 タクシーが走り出して、僕はテールランプが見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。後悔と安堵は、どちらが勝っているとも言い難かった。