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連鎖の結末

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年5月時点のものです。ちなみに、話の中には、「フィクションであるが、限りなく事実に近い」という話も入っています。フィクションと思うかどうかは、読者の意思ですが、作者とすれば、フィクションですとしか言いようがないといっておきます。

                 父親の失踪

 世の中には、連鎖反応などと言う言葉は、たくさん溢れている。
「食物連鎖」
 などと言う言葉も、そうである。
 これは、「食べる」、「食べられる」と言った、それぞれの立場から、生物群集内においての、連鎖をいう。
 例えば、肉食動物が、動物を食べる。その動物は、植物を食べる。植物は、動物の死骸や、排せつ物などを肥料として育つと言った形での連鎖を繰り返すことで、生物の生存がバランスよく確立されていくことになる。
 しかし、これはあくまでも、バランスの問題で、どれかの生物が劇的に減ってくると、それを食物にしている動物も減ってくる。さらに、それを食物にしているものは……。
 ということで、バランスが崩れると、すべてに影響が出て、連鎖の中に入っているものは、共倒れということになるのだ。
 それが、いわゆる、
「食物連鎖」
 と呼ばれるもので、一種の循環であったり、堂々巡りのような感覚だといってもいいだろう。
 例えていうなら、
「ヘビが自分の身体を、尻尾から食べて行っているような感覚だ」
 と感じるの人も少なくないのではないだろうか?
 ただ、この場合の発想は、実は難しかったりする。自分の身体を自分で食べるというのだから、しかも、尻尾からである。次第に食べていくと、どんどん身体が小さくなっていき、最期には口だけが残る。
 もちろん、身体の柔らかさなどを考えると、ある程度のところで、食べられなくなるのは分かるのだが、それを考慮しないと考えれば、ものすごい矛盾にぶち当たることになる。
 この矛盾は、
「メビウスの輪」
 に通じるものがある。
「紙テープを一回転させて、端と端を糊で結んで、その中のある地点の紙の真ん中から、テープに平行になるように線を引いていくと、最期には重なる」
 というのが、
「メビウスの輪」
 の正体であるが、本当にそんなことが可能なのか、実に疑問である。
 実際に、やってみると、できるはずがない。それこそ、
「時空の捻じれ」
 が発生し、異次元へのパスポートが発行されるのではないだろうか?
 これが証明できれば、ヘビが自分を尻尾から食べて行って、最期にはなくなってしまうということを、証明できるのではないだろうか?
 ただ、そこには、
「時空の捻じれ」
 の存在が不可欠であり、もしその時空の捻じれが本当に存在するのであれば、食物連鎖が崩れたとしても、
「人間だけは、生き残っていける」
 ということも可能なのかも知れない。
 ただ、そこには、越えなければならないハードルが無数にあり、食物連鎖から、人間の滅亡を考えるよりも、もっと他のことを心配した方がいいのかも知れない。
 だが、この問題は、放っておける問題ではなく、いずれは立ちはだかる問題なのだろうが、逆に他を解決することで、こちらの問題に当たる際に、少しは違った発想が生まれてくるのではないかと思うと、食物連鎖は、
「他からの連鎖によって、防げることなのかも知れない」
 とも、思えるのだった。
 しかし、連鎖というと、あまりいいイメージを持っていない人の方がいいのではないだろうか?
 例えば、
「何かのトラブルが起こった時、連鎖反応で、それが続く」
 ということがある。
 不景気になって、会社が倒産していく時も、
「連鎖倒産」
 などという言葉もあり、大手が破綻してしまうと、零細企業などは、その会社から仕入れが、ほとんどだったりなんかすると、完全に連鎖倒産となってしまう。
 というのも、会社が破綻して、破産宣告などと裁判所に起こしたりした場合、
「民事再生」
 という法律があるが、これは、ある意味、その会社を生かすために、
「他に犠牲になってもらう」
 というやり方である。
 つまり、
「一定期間よりも前の仕入れに関しては、債権者は、債券を失う」
 というもので、下請けなどの、零細企業は、債権放棄を余儀なくされて、そのまま倒産してしまうことになるだろう。
 破綻した方の会社は、民事再生を申請し、再建計画をしっかりと練り、それを、取引銀行が了承し、それに沿って再建を行う必要がある。
 そして、再建に必要不可欠なものが、
「スポンサー」
 である。
 この会社に、まだ未来があるということで、支援してもらえるスポンサーが、しかも、しっかりとした経営ができている会社がスポンサーとして名乗りを上げてくればければ、銀行は、再建計画を了承しない。
 何しろ、仕入先に、再建棒引きをさせるのだから、このまま営業を進めていく場合に、仕入先がなくなることになる。
 仕入先に対しては、
「仕入に関しては、現金で行う」
 ということにして、サイトが存在する、
「掛け売り」
 は、原則禁止になる。
 つまりは、手元にお金がなければ、仕入もできないということである。
 民事再生の場合は、民事更生法と違って、会社の破綻の責任を、経営者が取る必要はなく、会社によっては、社長が変わらないということもありえるのだが、実際には、上層部の、総入れ替えということも行われるだろう。
 特に、
「同族会社」
 などの場合は、社長が世襲というような、昔からの流れの元に、会社が成り立っていたりすると、完全に時代に合っていないことになる。
 そもそも、そんな同族会社が、今まで生き残っていたというのも、まるで化石のようで、そのような状況が許されていたこと自体、
「世の中のどこかが狂っている」
 といえるのではないだろうか・
 それこそ、時代の捻じれであり、そんな連鎖反応を起こさないようにということで、今は弱小会社を合併したり、吸収したりして生き残ってきたのだ。
 だが、実際に連鎖というのは、ひどいもので、倒産すると、まず、倒産した会社の資産を凍結し、在庫も差し押さえられる。
 お金ももらえないうえに、在庫も差し押さえられ、納入先とすれば、納品した分がまるまる損である。
 それどころか、それまでに収めた過去の分の代金がもらえない。在庫も焦げ付いてしまい、賞味期限のあるものは、すべてが、廃棄処分ということになるだろう。
作品名:連鎖の結末 作家名:森本晃次