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思いやりの交錯

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年4月時点のものです。また、当時の政治情勢や、政府方針に関しての意見は、あくまでも個人の意見で、かなりの少数派だと思っております。そういう意見もあるんだ……、くらいで見てください。

                 新感覚

 あれは、今から半年くらい前のことだっただろうか? マサトがフラッと寄ったソープでのことだった。
 大学生のマサトは、大学1年生の時、高校の先輩が、
「入学祝に、面白いところに連れていってやろう」
 ということで、歓楽街に繰り出したので、
「キャバクラにでも連れていってくれるのかな?」
 と思い、ソワソワしながらついていった。
 高校時代までは真面目一本、もっとも、受験が迫っていたので、浮かれている場合ではない。楽しいと思うようなことは、全部大学に入学してからのお楽しみであった。
 やっとの思いで(あくまでも、個人的主観で)、大学に入学できたことで、だいぶ精神的にも開放的になっては来たのだが、
「じゃあ、楽しいことってなんだ?」
 ということになると、思いつかない。
「頂上に登ると、きれいなものがいっぱい見える」
 と言われて登ったはいいが、想像とは違っていた。
 それは、自分の中で、キレイだという感覚がどういうものなのか分かっていたからであって、頂上に登ったからと言って、その感覚が失せるということは、普通では考えられないことであった。
 しかし、それも、自分の感覚が変わらないという前提のものであって、達成感が、満足感に変わったのだから、求めていたものが、違うものに変わったとしても、それは無理もないことであった。
 大学に入学するということは、
「受験勉強をする間、その時間すべてを後回しにした」
 ということであり、後回しにしたとしても、人生の寿命が生まれた時から決まっていたのだとすれば、この間後回しにした分はどこにいくというのか?
 人生で後回しにしていいものなど本当はあるはずがない。受験勉強に勤しんでいた時間というのは、無駄にしてはいけない時間であったはずで、それを取り戻すには、
「大学に入ってから、いかに失った時間を取り戻すかだ」
 ということを、考えていた。
 もし、この期間に取り戻せなかったら、社会人になってから取り戻せるはずがない。自由はなくなり、何と言っても、学生の頂点である、大学4年生を卒業すると待っているのは。社会人一年目という、いわゆる奴隷のような時代だといえるのではないか?
 入社してすぐの花見では、新入社員ということで、花見の場所取り、新入社員歓迎飲み会では、
「俺の酒が飲めんのか?」
 と言われて、強引にでも飲まないといけない。
 会社だって、新入社員を多めに採用したのは、
「1年目で、半数くらいが辞めていく」
 という計算で余計に取っているだけだ。
 そのうちの誰が残ろうが、どうせまだ実力も分からないのだ。逆にザルの上で、振り分けられて、その場で落ちなかった人間だけが残るということだけである。
「残った人間は、やる気のあるやつ、辞めていった連中は、しょせん、どこに行っても通用しない連中だ」
 と勝手に決めつけられる。
 今は、コンプライアンスやハラスメントなどという言葉もあり、雇用側も結構大変なのだろうが、新卒一年目は、どんな時代であろうと、大変なことに変わりはないのだ。
 大学生からまったく違う生活になるのだから、その時、自分が何を置き忘れてきたのかなど、考える余裕などないというものだろう。
 それは、まだまだ先の時代のことではあるが、話にだけは聞いているので、いずれ覚悟はしないといけないことだった。
 大学に入ってから最初にしたのは、
「友達作り」
 であった。
 高校時代というと、勉強ばかりしていて、
「大学に入るためだけの学校」
 だったのだ。
 だが、大学に入ってみると、
「高校時代にやっておけばよかったな」
 と思うことが、どれほどあったことか。
 確かに大学に入ってやっても遅くはないことではあるが、高校時代にやっていれば、何が良かったかと言って、
「自慢できる」
 からだった。
「大学生になっても、まだ童貞なんだ」
 と言われて、恥ずかしいことなのかどうか、ハッキリは分からないが、言われ方であって、相手が、
「俺なんて、高校1年の時には、すでに女を知っていた」
 と言われると、焦りが出てくるのだった。
 いくら勉強ばかりしていたといっても、思春期はあったわけで、ムラムラも来ていたわけだ。
 大学に入ってから、高校時代のことを思い出そうとしても、なかなか思い出せなかったが、ムラムラ来た時のその瞬間のことは切り取る形で覚えているのだった。
 あの頃は、自分だけが童貞だと思い込んでいた時期もあった。皆、勉強するふりをして、しっかりと童貞を卒業し、大人になっていたと思うと、自分一人が取り残されてくる気がして、自分も早く女を知りたいと思った。
 しかし、逆にこれこそまわりの人間が、自分を欺いて、焦らせて、女に走らせることで、女に溺れることを想像し、脱落させようという狙いがあるのだと思うと、次第に何が正しいのか分からなくなってくる。
 そうなると、焦りも、次第に落ち着いてきて、
「ああ、もう少しで、間違った道に進むところだった」
 と思い返すだろう。
 そして、その一瞬の気の迷いを忘れ去ろうとするのだった。
 実際に忘れ去ることはできるのだが、今度は大学に入学できて、苦しかった頃が、まるで遠い昔に思えてくると、いったん忘れようと思ったあの時のムラムラが思い起こされてしまうのだった。
 一瞬の高い山だっただけに、頂上を思い出そうとすると、まるでそれが、天空の世界であるかのごとく感じさせられる。
 だから、女に対して、気持ちが燃え上がった時、一瞬だったという意識はあるのだが、実際にはそうでもなかったことを思い出す。
 それは夢の感覚に似ていた。
 夢というのは、目が覚めるにしたがって、その記憶がおぼろげになっていく。そして、目が覚めてしまうと、忘れてしまうことも多い。
 そして、ここが夢と、高校時代との感覚の違いなのだが。
「夢というのは、その続きから見ようと思っても、絶対に見ることはできない。それだけこの世界とは別の世界だからであろう」
 しかし、高校時代に感じた、忘れてしまった感覚というのは、
「その続きから見ようと思えば見れるのだ」
作品名:思いやりの交錯 作家名:森本晃次