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謎は永遠に謎のまま

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年二月時点のものです。今回の小説も、実在の探偵小説に似た話があると気づく人もいますが、あくまでも、実名は出しておりませんので、あしからず。

               雪国

「国境の長いトンネルを……」
 という小説が確か昔あったが、最初に聞いた時、
「それ、日本の話か?」
 と感じたものだった。
「だって、日本って島国じゃない。国境というのは、おかしいのではないか?」
 と感じた。
 だが、この場所が、
「上越国境」、「信越国境」
 などという呼び方が地元にあることから、問題ないとも言えるだろう。
 しかも、この字の読み方を、
「くにざかい」
 と呼べば、それは問題ない。
 上野と越後の間という旧両性国の呼び方であれば、
「くにざかい」
 というのが正しいという説もある。
 要するに小説としては、そんなにこだわることはないということであろうか?
 そんなことを考えながら、川北守也は。今雪国へと向かっている。
 ただ、こちらの雪国というのは、信州でも、越後でもない。東北のみちのくだった。岩手県の奥の方に、秘境の温泉があるということを、知り合いに聞いたので行ってみることにした。
 仕事で、二か月ほどまったく休みもなく、夜が明けたり日が沈んだりしているのも、おぼろげに意識できる程度で、一体意識がなくなってから何日が経ったのか、自分でも分からなくなっていた。そんな毎日を缶詰にされながら作業をしていると、自分が何者なのか分からない状態である。
「生きているのか、死んでいるのか、たった今呼吸ができなくなってしまい、声が出なくなってしまったとしても、きっと、誰にも気づかれずに、死んでいくことだろう」
 などと、小説を書けもしないのに、書けるような錯覚に陥るのだった。
 意識が朦朧としてくると、曖昧なことのそれが当たり前に感じられてくる。曖昧になってくるのは、意識だけではなく、時間も同じで、これは意識というよりも、感覚が曖昧になってきているようだった。
 そもそも、南国育ちの川北には、雪国ということがピンとこない。本当であれば、いろいろ用意しておかなければいけないのだろうが、ほとんど、何も用意していない。それは、一つのことを気にし始めると、収拾がつかなくなるほどに悩んでしまうからだ。
 一度悩んでしまうと、せっかく頭に思い描いたことが、一度崩れてしまって、再度作り直さなければいけなくなる。それができる人はいいが、川北には無理だった。
「悩みが尽きない」
 などとよくいうが、果たしてどうなのだろうか?
 悩みが尽きないという時の悩みというのは、基本的に同じ悩みの派生形ではないのだろうか?
 それを思うと、一つが解決すると、おのずと他のことも解決してしまう。しかも自然にである。
 だが逆に解決できないと、そこから抜けることはできない。なぜなら数珠つなぎになっているからで、それがまるで呪縛であるかのように、括り付けられたようになってしまうのではないかと感じていた。
 雪というものは、どこまで行っても白い、その境目が分からない。それを思うと、すべてが数珠つなぎになっていて、それは一長一短、下手をすれば、逃れられない状態になり、一蓮托生で、最悪にならないような気がした。
 そもそも、一蓮托生という言葉は、数珠繋ぎを思わせる。それと、前から気になっていたのだが、一蓮托生の「れん」という字は、連なるという字ではない。「はす」という字なのだ。だから、連なって運命を共にすることだから、勝手に、「連」だと思っていたが、実際の意味も違うのだった。「蓮」という字を使うのは。仏教用語だからで、
「よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。 もと仏教語」
 というのが、本当の意味だという。
 決して、連なるという意味ではないということは、面白い発見であった。
 川北が雪国を旅行しようと思ったのは、友達に招待されたからだった。
 その友達というのは、大学時代の知り合いで、お互いに、
「都会の大学に進学した田舎者」
 というキャッチフレーズを語り合った仲だった。
 その友達がいかに感じているのかは分からないが、川北自身は、
「別に田舎者だと思われてもかまわない」
 と思っていた。
 ただ一つ気になっているのは、
「好きになった女の子に嫌われたくない」
 という思いがあるからで、ただ、その思いが強かったのが、友達の方だったのだ。
 その時は二人とも気づいていなかったのだが、その相手というのがお互いに好きな相手だったのだ。その女の子は越後の出身で、友達は、同じ雪国で話が合うと思っていたようだが、川北の方は、逆に、会話が新鮮だということで好きになったのだが、川北は、彼女が北国出身であることから、友達を選ぶだろうと勝手に思い、自分から身を引くことにした。
 それを潔い決断として、自分なりに自分を評価していた。しかし、それは友達から逃げていることであって、さらに彼女からも逃げていて。挙句の果てに、自分からも逃げているのだということを分からなかったのだ。
 そのせいもあって、諦めはしたものの、諦めがあまりにも早かったせいで、後悔が残ることを軽視していた。そのために、自分がどのような苦しみを味わうことになるか、まったく想像もできていなかったのだ。
「恋愛などで、苦しむなんてことないだろう?」
 と勝手に思っていた。
 なぜなら、子供の頃から、頭の中では常に数字が頭を踊っていて、
「加減乗除」
 という考えが基本だったのだ。
 それは精神的なことにおいてもそうであって、下手をすると、損得勘定が自分を動かしていて、そのことに自分で気づいていなかったりした。
 だから、苦しみがあるとすれば、
「加減乗除という数学的な公式に当てはまらないことが起これば、自分で情緒を保つことができなくなるかも知れない」
 と思い、そのせいか、冒険心というものを自らで否定し、さらに拒否していたに違いない。
 それを自分で認めて、さらに、答えが導き出せなかったりすれば、その時に起こる頭の中の混乱を抑えることができないからだ。
「どうせ、医者にだって治せないんだ」
 と考えると、
「最初から、悩むような道を選ばなければいいんだ」
 と感じ、感情を押し殺してきた。
作品名:謎は永遠に謎のまま 作家名:森本晃次