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歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年一月時点のものですが、

               社会構造の変化

 果たして、読者諸君は、パラレルワールドという言葉をご存じであろうか? 
 パラレルワールドの定義として、
「パラレルワールドとは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指しており、並行世界、並行宇宙、並行時空とも呼ばれているもので、SFの世界でのみならず、理論物理学の世界でもその存在の可能性について語られている」
 ということであるが、この定義を初めて聞いた時、草壁玄太は、
「あれ? そういうことなのか?」
 と、何となくの違和感を感じていたのだ。
 今では、三十五歳になり、母校であるK大学の教授となった草壁は、理論物理学を専攻していて、若い頃から、疑問に思ったことをノートに書いては、自分なりの論文を組み立てていた。
 中学時代から書いていたことになるので、今から二十年ほど前のことになるだろうか。初めてパソコンを買ったのもその頃で、まだ、当時のパソコンは結構高かったのを覚えている。
 高いくせに、今ほどの機能がなかったので、
「大したことないパソコンだったな」
 と思うのは、今からさかのぼって考えるからで、当時は、そんなことを思いもしなかった。
 理論物理学をやっているからなのか、それとも、昔からのくせなのか、どうしても、過去と比較してみたくなるのはしょうがないことだが、大学で本格的に理論物理学を勉強するようになるまでは、未来のことなど、考えてみたこともなかった。
 中学、高校時代というと、自分の未来を想像してみるのが、普通ではないだろうか?
 だが、草壁は、自分の将来を想像することはできなかった。それは、自分の未来以上の、この世界の未来を想像しようとしてできなかったからだ。
 草壁は、
「自分の未来を想像するよりも、世界の未来を想像する方が、簡単だ」
 と思っていたのだった。
 その理由は、
「自分というものを見ることが、どれだけ難しいか? つまり、鏡のような媒体がなければ、見ることができない」
 ということであった。
 さらに、そのことを痛烈に感じたのは、一度、自分の声をボイスレコーダーに入れて、再生してみた時、
「俺の声って、こんなにも軽く聞こえるんだ」
 と思ったほどに、自分が想像していたよりも、はるかに高い声でしゃべっていたからだった。
 抑揚もまったく違っているし、ここまで違う声を聞いていると、自己嫌悪に陥るレベルでもあった。
 ボイスレコーダーの声を知り合いに聞いてもらって、
「俺の声って、こんな風に聞こえるのかい? ボイスレコーダーに録音したので、変に録音されちゃったのかな?」
 と訊ねると、
「いやいや、この声そのままだぞ。お前は自分の声をどんなふうに聞こえているというんだい?」
 と言われた。
「どんな風にって、まだまだ低い声で、ハスキーで渋い声だと思っていたんだけどな」
 というと、
「俺も自分の声を聞いてみよう」
 と言って友達も同じことをしたのだが、確かに、草壁が感じたことと同じ感覚を友達は味わうことになった。
「やっぱりそうなんだ」
 と言われて、
「これが声の真実ってやつなのかな?」
 と二人で納得したものだ。
 中学時代に、
「自分で思い込んでいたことが、実は勘違いだった」
 ということを、数多く経験したことで、次第に科学に興味を持つようになり、最初は化学の方が好きになって、化学式であったり、元素などの知識、さらにかつての科学者によって、どのような発明がなされたのかということを探るのが好きだった。
 医学の発展や、生命の危機を救うような発明が施されているのを調べるのは、実に興味があった。
「化学からは、医学、薬学の発展へと目が向いてくるが、一歩間違えれば、大量殺りく兵器の開発であったり、薬学の発展が、人類のためではなく、一部の金儲け集団のためのものであったりするのを目の当たりにしてくれば。これほど悲しいものはない」
 と思うようになり、
「化学よりも、物理学」
 と考えるようになった。
 ただ、高校生になると、物理の勉強は、数学式がどうしても必須になってしまい。数学なくして語られるものではなくなったこともあって、あまり好きではなかった。
 元々の算数の一番最初を思い出したからだ。
 算数の基本というと、
「一足す一は二」
 というものであるが、
「どうして、そうなるの?」
 と聞かれるとどうだろう?
「そこ?」
 と答えるのではないだろうか。
 そこを突っ込まれると、
「そういう風になっているんだから、そこは深く考えないで」
 としか言いようがないだろうが、理解しようとする方は、納得がいくわけはない。
 実際に、この問題で引っかかってしまい、算数というものを、入り口から理解できないどころか、拒否してしまっているのではないだろうか。
 それを思うと、最初から取り残されてしまい、それ以降が理解できるはずはない。それでも、いつの間にか、理解できるようになっていた。それはまるで、
「乗れなかった自転車に、気が付けばいつの間にか乗れるようになった」
 という時と似ている。
 意識して乗ろうと思っていて、実際に乗れないと、
「やっぱりな」
 と、乗れないことを前提に考えているから、そう思うのだろう。
 だが、気が付けばいつの間にか乗れていることがある。
 それは、乗れていなかった時は意識していて、乗れた時というのは、意識しないからではないだろうか。つまり、
「意識しないという意識が、乗れるようになる秘訣ではないか?」
 と考えた。
 大学時代くらいに、疲れからなのか、よく口内炎ができていた。口内炎ができると、食事をする時の痛みどころか、寝ている時も口が渇いてしまって、口内炎が痛くて眠れなくなることがあるくらいで、意識しないわけにはいかない。
 しかし、治る時はあっという間というべきか、気づいたら治っていて、普通に食事も睡眠も摂れるようになっているのだった。
 それなのに、治った瞬間が分からないのは、少し寂しい気がした。あれほど、
「早く治って、ゆっくり眠りたい」
 と願っていたのだから、治った瞬間の喜びを感じたいと思うのは無理もないことであろう。
 それなにに、治った瞬間が分かっていないというのは、何か取り残されてしまったような、残念というか、一抹の寂しさがこみあげてくるのだった。
 算数もそうである。実際に、
「一足す一が二だ」