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中二病の正体

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 と思っている特徴があるようだ。
 これは、系統から分けたものであるが、そこから出てくる行動パターンというのも、ある程度決まってきて、そのことがいかに、
「中二という年齢に当て嵌まるかということを考えれば、おのずと見えてくるものがある」
 と考えられたりもするのであろう。
 それが、表に見える思春期における特徴であり、例えば、
「急に母親に反抗心を抱く」
 ということや、
「親が自分の部屋に入ることはこの世の終わり」
 のような気がしてきたり、
「孤独であることが美学だ」
 と感じてみたりというのは、中二病における症例の一つの例なのであろう。
 それら、一つ一つだけでも、十分に中二病としての効果があるのかも知れないが、実際に中二病と言われるのは、もっと曖昧な感覚なのではないだろうか。
 それこそ、
「言葉のカオス」
 と言ってもいいような発想が生まれるだけの土台が存在しているのかも知れない。
 そこには、思考パターンと行動パターンが存在し、
「思考パターンから行動パターンが生まれるのか、行動パターンが存在して、そこから、思考パターンを組み立てようとするのかではないだろうか?」
 後者について考えると、表に出てくる行動パターンを何とか正当化させようとして、いや、自分を納得させようとして、行動パターンを自分の想像の枠に押し込もうとするのだろう。
 だが、そんなことをして、無理をしているのではないかと思うことがあり、実際に、行動パターンが本当に思考パターンと結びついているのか、よく分からない。
 他のことであれば、結びついてくるのであろうが、このような病的なことを強引に結び付けようとすると、その発想がどこまで正当化させることができ、納得できるのか、難しい問題ではないだろうか。
 一定の時期に、本当の病気ではなく、精神的に自分を納得させられないこととして起こるものに、
「五月病」
 というものがある。
 これも、時期的には、五月が一般的だと言われているだけで、本当に五月にしか出ないものでもない。
 ただ、これは、五月病という名前の病気というわけではなく、精神において、
「適応障害」
 あるいは、
「うつ病」
 として、診断されるものである。
 新入社員や大学の新入生などに見られるもので、
「新しい環境に適応できない」
 という、こちらも、言葉にすれば、抽象的な表現になってしまうものである。
 やはり、精神的なものであり、環境が新しくなったことで適応できなかったり、まわりから、自分がまだまだ甘いと思われていることを自虐的に考えてしまったりすることで起こるものなのではないだろうか。
 ただ、実際には違うものだ。中二病が、
「新しい環境に適応できない」
 というものではない。
 むしろ、成長していく過程において、急激な肉体的な変化に適応しようとして、無理をしているという方が正しいような気がする、
 もっとも、まわりの同世代の人間の成長に適応できていないとも言えなくもないが、それは中二病の原因ではない。
 中二病というのは、あくまでも、成長していく自分に追いついていけない自分に対して感じるものであり、適応という意味では相手が違っているといってもいいのではないだろうか。
 ただ、まったく違うものだとも言い難く、中二病も、ある意味、五月病と同じく、孤独感が支配している精神状態が、自分でも分からない間に、いつのまにか、追い詰められている状態になるのかも知れない。
 五月病の場合は、追い詰められているという意識はあるが、
「何から追い詰められている?」
 という意識と、
「何に対して、臆病になっているのか?」
 という意識がありながら、その答えが見つからないことで、うつ病のような病気だと思われるのではないだろうか。
 だから、五月病に自分が罹っているという意識があり、その意識から逃れられない自分が辛いのだろう。
 中二病の場合は、果たして、
「自分が辛い」
 という感覚になっているのだるか?
 肉体的な変化への対応、そして、大人になることに対しての怖さや不安のようなものを、自分の中で正当化させようと考える、一種の自虐的なものが、中二病というものを生んでいるのだとすると、
「自分が中二病に罹っている」
 という意識を持っていない人が多いのではないだろうか。
 自虐的であっても、それが自分を正当化し、納得させるための気持ちの表れであるのであれば、それを病いだと、普通は考えないだろう。
 だから、中二病というのは、ある意味概念であって、病気ではない。その人にとっての、
「一過性の性格ではないか」
 と言えるのではないだろうか。
 ただ、一過性のものであれば、
「中学二年生の頃に陥りやすい感覚」
 ということで、病いなどという言葉を使わず、
「症候群」
 という言葉を使った方がいいだろう。
 それを敢えて、病いというのであれば、それは一過性のものではなく。中学二年生の頃から発症するというのは、
「中二症候群」
 と同じだが、
「大人になっても、半永久的に保ち続けているものが、中二病なのだ」
 と言えるのではないだろうか。
 そういう意味でも、五月病とは明らかに違う。五月病は本当に一過性のもので、それが一過性ではなく、そのまま孤独感や、憔悴感が、消えずに、さらに深まっていくのだとすると、その時は別の精神的な病いを発症しているといえるのではないだろうか。
 それを思うと、似たような言葉であっても、実際にはまったく違ったものを意味しているものも、実際には多いのかも知れない。
 特にこの二つのように、
「病い」
 という言葉がついているにも関わらず、実際には、病気などではなく、
「傍から見ていて、病気のように見えるが、その病気というのは、本当の病気ではなく、少し悪意に満ちた揶揄したかのような表現として、世の中の矛盾などをも考慮して表現した造語だ」
 と言えるのではないだろうか。
 それを考えると、他にも似たようなものは多いことだろう。特にネットが普及してきてからというもの。誹謗中傷があからさまに行われ、社会問題になっている。
 昔から存在していたものが、平成のある時期から、急に凶悪化してしまった「いじめ」という問題に似ているのかも知れない。
 言葉というものは、実に面白く、怖いものだ。
「言葉のカオス」
 と一言で表現はしているが、書いている本人も、その言葉の意味をハッキリと分かって書いているわけではない。
 むしろ、曖昧であり、どのように最後をくくればいいのかなど、今の時点でまったく想像もしていない。
「どんなことを書こうか?」
 という程度の材料としてのものは用意はしているが、落としどころなどというのは、正直でき上っているわけではない。
 小説というものを書く時には、
「プロット」
 というものを書くというのが、普通である。
 一種に、
「設計図」
 のようなものだが、正確には設計図というものとは少し違っているのではないかと思った。
「小説の書き方」
 なるハウツー本には、必ず、
「プロットを作る」
 ということは書かれているが、その書き方については、基本的なことは書いてあるが、実際の作り方などは記していない。
作品名:中二病の正体 作家名:森本晃次