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空墓所から

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30.震え



「…………」

数時間前。勤め先のオフィスでデスクに座っていた俺は、目の前に置かれているパソコンのキーボードを何文字か打ち込んだ後、ガックリと力なくうなだれた。


 人間という生き物は、この地球に80億ほど生息しているらしい。実際に自分で一人ずつ数えたわけじゃないが、恐らくみんなで手分けして数えて合算したんだろうから、信用していい数字なんだろう。
 しかも、この80億の人間はみんながみんな、同じ能力ではない。老いも若きも、男も女もいる。できるやつがいれば、おっちょこちょいなやつもいる。美しい顔立ちもいれば、ふた目と見られない者もいる。論理的なやつがいれば、感情的なやつもいる。人間、没個性で悩むものもいるようだが、大抵の者は良かれ悪しかれ、なんらかの個性を持っているものだ。

 まあ、こんなことは俺がくどくどと言い募らずとも周知の事実だ。しかし、80億もの人間が、このちっさくて青い惑星の上にいるということはどういうことを意味するか。とある個性を持つものにとって、それは、地獄絵図そのもののような厳しい人生を味わうということを意味するのだ。


 今日、俺は勤めている会社の本社に初出勤した。俺は今まで、地元にあるこの会社の支社で業務についていたのだが、そこでの働きが認められ、新年度から都心に居を構えるこの本社に配属となったのだ。
 オフィスに入り、フロアの人々にあいさつをした直後、俺は新しい上司に呼び止められた。話を聞いてみると早速仕事の話。こういった資料をちょっと作成してもらえるかな、上司はそう言ってにっこりと笑った。

「まあ、それほど難しくない作業だし、部署の状況を知るのにうってつけの作業だからさ。それほど急ぐものでもないから、無理に今日中に仕上げなくてもいい。帰り際にこんな感じでやってますよって1、2度見せてもらって、3日後ぐらいに完成していればありがたいよ」

 上司は柔らかい口調でそう言った。だが、この言葉をそのまま受け取るのは早計というものだろう。これを真に受けて仕事を明日以降に延ばしてしまえば、このオフィスでぼんくらのレッテルを貼られてしまうかもしれない。すなわち、上司の言葉を翻訳すれば、今日1日で、しかも残業をせずにまとめ上げろ、そう解釈すべきだろう。

「分かりました。直ちに取り掛かります」
「分からないところがあったら、君の右隣の席に主任の関屋さんがいるから、彼女に聞いてね」

 俺は自席に戻ると直ちに、資料の作成作業に取り掛かった。まず、必要なものを頭の中でまとめ、それをメモに書き出していく。そのときほんの一瞬、何か引っかかるような、何かが違うような、そんな気がした。だが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。新天地で自分の価値が試されている状況なんだ。俺はその違和をものともせず作業を進めていく。
 そうして必要なものを洗い出していくうちに、在り処の分からないものや、そもそもそんな情報がまとまっているのかといったものがちらほらと出てきた。俺は、それらの事項を隣席の関屋主任に確認する。主任は忙しい最中にも関わらず、快く俺の質問に応じてくれた上、的確な答えを明示してくれた。そして最後に、

「そっか。宮本課長の指示なんだ。頑張ってね」

と、うれしいエールまでいただいた。

 必要なパーツはこれでそろった。あとはこれらを、まとめてグラフ化し、言葉をいくらか添えて資料としてまとめ上げるだけ。時間もまだまだ十分にある。どう考えても今日中には出来上がるはず。そう考えていた俺の耳に、ラウンド終了のゴングのような予鈴が鳴り響く。昼休み。きりもいいところだし、ここまではいい感じにことを運べている。文句なしの満点だ。そう思いながら俺は、先輩方に誘われて昼食をとりにオフィスを後にした。


 昼休憩が終わり、メインの作業である資料の作成に取り掛かる。他の人にとっては満腹感で気怠い午後かもしれないが、今の俺は違う。襟を正して座り直し、目前に置かれているパソコンのキーボードで資料の作成を開始しようとした、そのときだった。

「カタッ、ガタガタガタッ……」

自分でも分かった。順調にキーをたたいて文字を打っている音じゃない。手が激しく震えて、あらぬキーをたたいているのだ。

『っkじぇwsっっbcfっっっgfdfdっっcbzっっbf』

ディスプレイには、文章の体をなしていない文字たちが次々と増えていく。

(な、なんだ?)

俺は動揺し、いったん手をキーボードから離す。そして、昼休憩の際に買ってきたペットボトルのお茶に口をつけた。

「…………」

そのペットボトルを握る手もまた、ガタガタと震えている。

 俺はその時に思い出した。そうだ、午前中にも違和を感じていた。あれじゃないか。

 焦りの中、半ば祈るような気持ちでもう一度キーボードにかじりつく。しかし、その数秒後にディスプレイに現れたのは、またもや日本語になっていない、スパイすら書かないような、暗号にもなっていない文字列だった。

 俺は再びキーボードから手を放し、ペットボトルを空にする勢いでお茶を飲んだ。落ち着け、落ち着け、こんなはずはない、こんなはずはないんだ、何か理由があるはずなんだ。
 俺は冷静になるために、目の前の忌まわしきディスプレイとキーボードから一度目を逸らす。必然的に右を向く形となった俺の視界に、主任の関屋さん、その先にいる宮本課長、その他、業務にまい進する同僚たちの姿が飛び込んできた。

「……!」

 その瞬間、俺は心臓が凍りついた。

作品名:空墓所から 作家名:六色塔