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空墓所から

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35.鳴き声



 とある日の早朝のこと。

 その日は二日酔いのせいで眠りが浅く、目覚ましよりも早く起きてしまった。二度寝もできそうにないので、仕方なく目の前のカーテンを開ける。そこに広がるいつもの野暮ったい住宅街の景色にはいい加減閉口しているけれど、さわやかな陽光がそれを十分相殺してくれる。僕はそれをまだ眠気が取れない体にいっぱい浴びてから、お手洗いへと向かった。
 用を足したあと、まだ開けていないカーテンを順々に開けていく。その儀式のような作業を終える直前、具体的には部屋の西側の小さい窓を覆ったカーテンを開けたとき。ふいに僕の視界の左の隅に違和感のある「点」が映った。

「?」

 それをよく見ようとして、僕は顔を若干上に向けて目線をそちらに合わせる。しかし、その「点」に視点が合って正体が明確になった瞬間、思わず体をのけぞらせてしまった。

 そこには、十重二十重の糸とそれに交じる真っ白な隠れ帯でしっかりと守られた、獣のような黄色と黒の物体が鎮座していた。そいつは時折身じろぎをして、そのたくさんの長い脚で器用に糸を渡り歩き、自身を守るとりでであり、なおかつ、捕獲という攻撃をもつかさどる武器でもある巣の様子を入念に確かめている。

 蜘蛛。あの派手な体色を持ったコガネグモ━━大きさから察するにメスだろう、が、いつの間にか僕のアパートの部屋の窓枠に巣を作っていたのだ。

 僕はのけぞらせた体をゆっくりと戻し、彼女をぼんやりとながめる。本当のところを言うと、蜘蛛は大がつくほど苦手だ。でも、だからこそ今はしっかりと見極めなければならない。この物体が窓ガラスのこちら側にいるのか、向こう側にいるのか。そのどちらかで問題の大きさは天と地ほども違うのだ。

 こちら側にいるのなら、それは僕の借りているアパートの部屋、すなわちテリトリー内に侵入してきているということになる。ならば、かわいそうだけれども容赦はできない。ほうきなどでやっつけたり、虫退治スプレーを吹き付けたり、ご退去を願わなければならなくなる。家の安寧のため、そこにいてもらうわけにはいかないのだ。
 もちろん、生存した状態で出ていってもらうルートもあるにはある。だが、こちらは蜘蛛が苦手なのだ。例えほうきや棒を利用したとしても、できることなら生きた蜘蛛には接近したくない。なにかの拍子に触れてしまおうものなら、もうトラウマものだ。それに、その棒やほうきだってそれ以降ちょっと使いにくくなってしまう。そう考えると、申し訳ないが僕のアパート内に立ち入ってしまった以上、もはや生きて出ていくことは許されない、そういうおきてにならざるを得ない。
 だが、争いは往々にして悲しみを生む。貴女は住処も命を奪われるだろう。僕も貴女が体をはい回って精神的に傷を負うかもしれないし、その後、おぞましい遺体の処理も行わなければならない。誰も得しない、むしろ問題だらけだ。

 だが、ガラス窓の向こう側にいるのなら、話は幾分、いや、とてもわかりやすくなる。僕としては、外ならば巣を作ってもらう分には何の問題もないのだ。蜘蛛は嫌いだが、益虫という知識は持っている。僕のテリトリー外での貴女の営みを否定する気は毛頭ない。貴女だって外のほうが、部屋の中よりはいくらか餌にありつくことができるだろう(そこが良い餌場かどうかは人間の僕には分からないが)。この場合、若干お互いの生活が透けて見えるお隣さんという立場になるわけで、そこには共生の余地が十分にあるのだ。

 僕は寝ぼけ眼をこすって視界をはっきりさせ、まじまじとその黄色と黒の鮮やかな物体を見つめた。内か、外か。敵か、隣人か。それを見極めるために、あまり見たくはない苦手な虫を陽光を利用して凝視する。


 数秒後、彼女の手前にガラスの反射する光が見えた。


 外か、良かった。僕はみじめな格闘と無益な殺生をせずにすんだ喜びに浸りつつ、朝食の準備をしに別室へと向かった。


 それから数日がたった。

 あの蜘蛛は相変わらず窓の外で頑張っている。ずっと見ているわけではないので、十分な餌にありつけているかどうかまではわからないが、とにかく生きて活動をしていることは確かだった。そんな、一見何も変わっていない蜘蛛の様子とはうらはらに、僕の心境は初めて彼女に出会ったときとはちょっと違っていたものになっていた。

 毎朝のカーテンを開くという作業。それは目覚ましより早いときもあれば、遅いときもあるけれど、蜘蛛が左上にいるはずの最後のカーテン、そこに手をかける時に少しだけ楽しみになってきている自分がいる。
 申し訳ないけれど、やっぱりカーテンを開けた瞬間に飛び込んでくるそのおぞましい姿(ああ、なぜ人という下等な生物は容姿をそれほどまでに重要視してしまうのだろう、この馬鹿さ加減!)に、ウッとなってしまう。だが、それでも彼女が巣の中央で足を踏ん張って、外敵にもひるまずに巣を前後に揺すって威嚇をしているところを見ると、得も言われぬある種の熱情が僕の心の中にたぎってくるのだ。

「僕は随分となまぬるく生きているのに、君は精力的に頑張ってるなあ」

 ある朝、僕はカーテンを開けた先にたたずんでいる蜘蛛の勇姿を確認した際、思わずそんなことを口走っていた。

 言い終えた瞬間。その蜘蛛のその派手な体から、窓ガラスを超えて僕の耳に

「キッ、キッ、キッ、キッ」

という、奇妙な声が聞こえてきた。確かに聞いたのだ。


 不思議に思いネットで調べたところ、蜘蛛にも発音器官があることはあるらしい。だが、そこから出る音は通常人間には聞こえず、ある特定の種類の蜘蛛が出す音のみがどうにか人に聞こえる、とのことだった。
 あの蜘蛛はコガネグモだ。それほど珍しい種ではないし、もちろん音が聞こえる種類でもない。でもなんとなくあの鳴き声にも似た音色は、自堕落な生活を送っているふがいない隣人を叱咤激励するための彼女なりのエールだったんじゃないかなあ、となぜか思った。

 まあ、僕も負けてはいられないので、少しは頑張ってみようと思う。でも、蜘蛛である貴女は、反対にもう少しゆっくりしたほうがいいかもしれない。先ほど調べたついでに得た情報では、蜘蛛はコーヒーで酔っ払うそうだ。それなら今度、蜘蛛が平気な友人にお願いして貴女にコーヒーでも振る舞おうじゃないか。そして僕と友人は焼酎を開けて、2人と1匹でしこたま酔っ払おう。

 ガラス窓一枚を隔てたお互いの家で、さ。


作品名:空墓所から 作家名:六色塔