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ポイントとタイミング

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。今回の小説は、ところどころに作者の気持ちを偏見のように描いている描写を盛り込むつもりですので、そのあたりはご了承ください。そのせいもあって、警察にあるまじき捜査になってしまっていますが、本来の警察とは関係がありません。ただし、警察は何かが起こらないと動かないだとか、管轄第一などという誰もが周知の内容は、お詫びに値しませんのでよろしくお願いします。

            人は見かけで

 時代は平成から令和に移り、時代背景も変わったであろう。
 などと書くと、さぞ世の中がよくなったという風に聞こえるかも知れない。だが、少なくとも現在この世に生きている人間の中で、世の中が、少しずつでもいい方に向かっている人がどれだけいるだろう。
 それは、その人個人のことであって、その人が上向きな運勢というだけであり、世の中がよくなっているなどという錯覚にとらわれているだけだ。世の中、政治の世界、経済、教育、外交、どれをとっても何一つとして上向きに向かっているものなどあろうはずもない。
 特に政治というのは、腐敗しきっている。
「そんなに悪くなっているわけでもない」
 という人がいれば、それは、あくまでも、今が下げ止まりの最低停戦にいることで、
「もうこれ以上悪くならないというだけのことだよ」
 と、皮肉を込めているだけである。
 誰が、そんな言葉を真正面から受け止めようというのだろうか。
「バカにするのもいい加減にしろ」
 と言いたいのだ。
 自分に忖度させて、悪いことをさせ、都合が悪くなるとその人に全責任をおっかぶせて、その人が自殺しようがどうしようが、自分には関係ないと言わんばかりの下衆な政治家がいたりする。
 国家の危機という時でも、バックのぼんくら元老から言われたことを忠実に守って、まったくトンチンカンな対応をして、世間からの総バッシングを受けるという、優柔不断な首相がいたり、都合が悪くなると、病院に逃げ込んで(前にも同じことをした経緯あり)途中で政権を投げ出すという、まるで道化師のような政治家がいたり、次に首相の座についた男は、ぼそぼそと何を言っているか分からない、優柔不断の方がどれほどましかと思えるほど、最初からまったくやる気のない男で、殊勝になったとたん、雲隠れでもしたかのように、インタビューにもこたえようともしない。
 と思っていたら、急にカメラの前に出てきたかと思うと、待ってましたとばかり、自分のまわりで不祥事が続出、挙句の果てに、自分の家族が悪いことをしても、
「別人格だ」
 と言い張る。
 そんな何の信念もない、ただの「つなぎ」にすぎないくせに、「つなぎ」にもなっていないという、小学生以下の男が殊勝だったりする令和である。
「そういえば、そもそも、令和と発表したのはそいつじゃなかったっけ?」
 と、言われて、
「そうそう、違いねえ」
 と言って、笑っていられるならいいが、今の時代はそんな状態ではなかったりする。
 まあ、我々には参加できない首相を決めるという選挙。何が民主主義だというのだ。こんな民主主義国家、他にないだろうと言いたい人もたくさんいるにちがいない。
 こんなセリフはネットのツイッターなどでは、たくさん見られることだろう。だから、もう読者諸君は見飽きたし、聞き飽きているかも知れない。しかし、小説というのは、ツイッターなどと違い、作者が公開していれば、永遠に閲覧状態にあるのだ。時代が進んで、
「令和の初期って、そんなガキの使いのような時代だったんだ」
 と言って、笑い話にでもなってくれればいいと思っている。
 これを何年後かに見て、
「笑い事じゃない。あの頃から終わりが来ていたんだ」
 と思われたり、もうすでに、ネットを閲覧することもできないような、管制が敷かれていた李するかも知れないし、それどころか、世界が崩壊していて、この世に誰も残っていないかも知れない。
 だが、歴史に残すという大げさなものではないが、ここに書いているのも何かの縁、お見苦しい点はお詫びいたしますが、きっと同意いただけている人は結構いることでしょう。
 何しろ表現の自由と言いながら。書きたいことを書くと粛清されてしまいそうなのは、いつの世でも同じ、そういう意味では今が一番言いたいことが言える時代なのかも知れない。ただし、言ったところでどうにもならないのがオチではあるが……。
 そんな時代を現代と呼んでいると、昭和などという時代は、
「すでに歴史の一ページ」
 とでもいうべきであろうか。
 今の歴史の教科書で昭和というとどんな時代だと書いているのだろうか? いや、それ以前に、歴史というのは、今の時点で、どこで終わっているのだろうか? 当然、年が進むうちに、過去の一部がどんどん歴史化していくのだろうから、流動的なのは当たり前だ。まさか、遡ったりはしていないのだろうから、歴史の終わりは、時系列に沿っているはずである。それを思うと、今の現代という世界も、前に進んでいるのだろう。
 ただし、それは時間が進んでいるだけなのかも知れない、歴史自体は過去に戻ろうとしているのかも知れない。よく言われることとして、
「歴史は繰り返す」
 という言葉がある。
 一種のブームということなのだろうが、ブームや流行りというのは、確かに何年か、あるいは何十年かの周期で訪れるものだ。それを思えば歴史が繰り返されていると思ってもいいのかも知れない。ひょっとすると、
「時代というものは、絶えず何かの力で、過去に戻ろうとする力を秘めているものなのかも知れない」
 ということだ。
 これは都市伝説的な話ではあるが、信憑性がないわけではない。
 つまり、
「時間と時代とは違うのだ」
 という考え方である。
「時間というのは、必ず一定であり、普遍的に前に進むしかできない。しかし、時代は遡ることができる。新しい時代であっても、それは過去の繰り返しである場合もある。それは果たして進んでいると言えるのであろうか?」
 という考えである。
 また、ものによっては、時間があるいは時代がどんなに進もうとも、まったく変わらないものもある。それは根本的なものであり、むしろそれが変わってしまうと、時代というものが根底から覆され、過去の教訓や、それぞれの人間が遺伝子で培われてきたものがすべて崩れ去るということになる。
 それを、宗教などの世界では、
「浄化」
 という言葉で片づけようとするのかも知れないが、例えば、聖書などに出てくる。
「ノアの箱舟」
 であったり、
「ソドムの村」
 の伝説など、極悪な世界は一旦滅ぼしてから、再度作り直さなければいけないところまで行った場合、それまで普遍であった倫理や考え方を変えざるおえなくなる。過去は存在しない、新たに生まれたものだけで形成される世界だからである。
作品名:ポイントとタイミング 作家名:森本晃次