小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集121(過去作品)

INDEX|1ページ/18ページ|

次のページ
 

自尊心



                自尊心


 自尊心のある人間は、悩みが多いと思っていた。だが、悩みがないことなどあるわけがない。それはいかなることにも考えが及ぶという人間の果てしない欲望と似ている。自尊心があるから苦しいのだが、自尊心がなくなれば、自分という存在を意識するものもなくなってしまい、考えてる自分が消滅してしまう。
 欲を求めるから人間なので、
「求めるのは、そこに欲があるから」
 という結論に達するだろう。
 人間が生活していく上で、仕事として営んでいることは、そのほとんどは欲に通じている。すべてと言ってもいいかも知れない。職がないと、
「おまんまの食い上げだ」
 というが、食することは。これすなわち食欲という一番代表的な欲である。
 食欲があるから身体が意地でき、性欲があるから子孫を残すことができる。欲にはそれぞれ理由があり、本能の求めるままに生活の中に自然と組み込まれているのだ。
 小沢憲次は、自尊心を持ち続けることをずっと宿命のように感じながら育ってきた。父親からの教育がそうだったので、当たり前のように、
「自尊心は強ければ強いほどいいのだ」
 と思ってきた。
 しかし、いざ自尊心を持つにしても、根拠のない自尊心はまるで絵に描いた餅も同然である。
「学生の本分は勉強である」
 その言葉を元に好きな教科を考えたが、思い浮かぶのは歴史だけだった。
 数学や国語、英語など主体となる教科にはあまり興味を示さなかった。決まった答えを求められる数学は、公式を元に解けるか解けないかという算数の時代にあったような面白さがなくなってしまったつまらない教科だと思っていた。
 国語は反対に、いろいろな考え方がある。裏を返せば、本当はそんなことなどないのだろうが、先生の好き嫌いによっても点数が変わってくるように思えた。
 英語は最初から性に合わず、いくら国際社会とはいえ、国語もまともにできないのに、英語ができるはずもないという観念に捉われていた。
 憲次は、どこか人とは違う観念を持っている。英語に関する考え方もそうだったが、その観念はあまりいいものではないだろう。
 できないことへの言い訳のように聞こえると思っていたからだ。人がどう感じるか分からないが、言い訳がましいことなど本当は言いたくない。それなのに、なぜか口から出てきてしまうのだが、人に知られたくないと思えば思うほど、ボロが出ているのではないかという疑心暗鬼に駆られる。
 歴史を好きになった理由はハッキリしている。一つの事柄を、いろいろな角度から見ることで、幾通りの考え方ができるところだ。
「歴史とは人間ドラマ。ヒューマンドキュメンタリーである」
 と言っていた人がいたが、まさしくその通りである。
 同じ時代に、たくさんの人がひしめき合うように活躍している時代に華やかさを感じるのは憲次だけではないだろう。
 日本の歴史の中で、いかにも華やかさを感じるのは戦国時代ではないだろうか。中央の力が失墜してしまい、諸国では、天下を取ろうとする輩がひしめき合い、
「下克上」
 なる言葉の元、主君であろうが親であろうが討ち倒すことで自分の名前を歴史に残した人は到底指の数に足りるはずもない。
 だが、彼らには大きな自尊心があったはずだ。人が人を平気で殺せる時代。いつ自分に対しての謀反を企てられるかと怯えていては天下を取るどころではない。
 人間を操縦する術を持ち、さらには自分の中に確固とした信念がなければ、民はついてこない。
 主君への義理も、この時代は強かったに違いない。いつ敵に攻め込まれるか分からない中で、城が築かれ、築かれた城には絢爛豪華な様子が催されている。
 短い人生をいかに太く生きるかという彼らの考えなのかも知れないが、人間の掌握術に繋がるものもあったに違いない。
 学生時代に修学旅行で訪れた街にあった城の天守閣に上り、当時とはまったく違った街並みを眺めながら、見えてくる光景は、五百年前の戦国時代をそのまま映しているように思えてならなかった。
 下を見れば恐ろしいほどの光景に、
「城主は何を見つめていたのだろう」
 そんな思いに至れば、怖さも半減していた。
 自尊心が自分を苦しめるということを、戦国時代の人はどのように感じていたのだろう。自分の家族を守ることが今の世の中では正義に感じられるが、今の世の中で、どれほど家族を守る正義が貫かれていることだろう。
「親が子供を殺し、子供が親を殺す」
 そんなニュースが毎日のように新聞やテレビニュースを賑わせている。
 小沢にとって、政治の世界への興味などさらさらないが、歴史上の事件を見ていくと、つながりを感じる。過去から未来を見つめるのもよし、未来から遡るのもより、そこには必ず何かの分岐点があるはずだ。
 小沢にとっての城めぐりはその気持ちの現われでもある。同じ天守閣から見える景色の違いを考えると、自分が今いる世界をどのように見つめていくかが分かってくるように感じる。
 今までで感動を覚えたのは、熊本城に行った時だった。熊本という土地には以前から造詣が深く、阿蘇山にも一度行ってみたいと思っていた。その機会が訪れたのは、社会人になって五年目だった。
 同僚が熊本生まれで、
「一度遊びに来ないか」
 と声を掛けられた。
「阿蘇に行きたい」
 というと、二つ返事で、
「よし、決まりだ」
 ということになった。正直、その時まで熊本というと、阿蘇のイメージしかなかったのだ。
 九州の真ん中に位置していて、
「福岡とどちらが大きいのだろう?」
 という程度の知識しかなかったが、実際には福岡がかなり大きいのは間違いない。ただ、熊本市内の中心部は大都会を思わせるような雰囲気だったことも間違いのないことだった。
 福岡には出張で何度か出かけたことがあった。博多駅周辺、天神地区、その間に挟まれたようにある夜の街「中洲」。それぞれに情緒がある。
 商人の街と、城下町の違いが博多と福岡で鮮明にあるようだが、熊本にはそこまではない。都心部に堂々と聳え立つ熊本城。ビルがなければ、少々遠くからでもその絢爛豪華な佇まいを拝むことができるだろう。
 小沢は自分では方向音痴ではないと思っているし、まわりも、
「お前は方向音痴ではないだろう」
 と言ってくれるが、知らない土地に出かけると、得てして東西南北を間違って覚えてしまっていることが多い。
 小沢は小さい頃に神戸で育った。
 神戸という土地は、南に大阪湾、北に六甲山と、住める範囲が限られているだけに、方向を迷うことはない。
「山がある方が北なんだ」
 子供が抱いた固定観念なのだが、意外とこれが厄介なのである。一度思い込んでしまうと、なかなか抜けられないのが方向感覚、特に山に囲まれた盆地などに行けば、最初に山を感じた方が北なのだと思い込んでしまう。歩いていても、方向を絶えず感じているので、急速に思い込みは確信に変わってしまう。実に厄介である。
 頑固といえば頑固なのだが、分からないことを最初に思い込むことで、自然と理解しようとする気持ちが芽生えるということもあるだろう。それが短所となって働くのだから、下手な考えは難しさを呼ぶ。
 最初に奈良に行った時、おかしな感覚になった。
作品名:短編集121(過去作品) 作家名:森本晃次