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田中よしみ
田中よしみ
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ウラバンナ(朱夏紀ー2)

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ウラバンナ(朱夏紀…2)

二十年振りの帰省
八月十二日、東京駅から“のぞみ”に乗って帰省した。
三十七年前の高校の修学旅行で初めて東京を見学したが、当時都心は東京オリンピックに向けて躍動していた。日本人の誇りの象徴でもあった東京タワーから見た大都会に魅せられて東京で就職した同級生は多くいた。
その頃故郷では時代の流れに取り残されたヤマ(炭鉱)が閉山の真っ只中にあった。全国で閉山した炭鉱総数は約900ヶ所に上り、離職者は延べ20万人にも達したと言われている。明治以来、日本の近代化を支えてきた炭鉱労働者は、劣悪な労働環境と低賃金で戦後の復興をも支えてきた功労者である。

戦後の混乱期を生きてきた大人たちは“あの頃はどこの家庭も貧乏だった”と述懐するが、彼らが振り返る過去にはヤマのコミュニティは棚に上げられていた。当時の大人たちは心の何処かでヤマに優越感を抱いて、自らの貧乏生活に自己肯定感を高めていたのかもしれなかった。
 五十路の矢納孝夫は失意の中で二十年振りに故郷に向かっていた。母親への不義理の詫びと親友の初盆参りの帰省であった。それに加えて、秋津柊に会って確かめなければならない重大な懸案も抱えていたので心は晴れなかった。
列車は二十分足らずで横浜に着いた。高校を卒業して社会に第一歩を踏み出した港町であり、秋津柊に再会して傷心した想い出の町でもあった。

 三十年前の横浜での柊との再会を思い出していると三島駅を通過して、雲の波間に富士山の頂が見えていた。新幹線の車内販売でビールとつまみを買って乾いた喉を潤した。いつの間にか新幹線の窓にもたれて微睡んでいたが、乗降客の動きで目が覚めた。
東京を出て一時間半余りが経っていた。参宮橋のマンションを譲ってくれた先輩は名古屋出身の俊才であった。彼は上司への不信感から中途退職していた。人事部が最新の人事評価制度を導入しても、体制に組みしない正論者が不遇のまま去って行く姿を何度も目撃してきた。
社会の復興と共に、各界で時の上司の意に沿わない者が冷遇される不条理が蔓延っていた。その結果、仲良しクラブのような群れが世の中を支配するようになった。そういう人事の澱みが会社を少しずつ蝕んでいたが、日本社会の屋台骨である政界や官界も例外ではなかった……。

故郷の駅前は二十年前の商店街がそのまま寂れていた。当時ハイカラのアーケードは錆びていたし、シャッターが下りたままの店もあった。
駅前の喫茶店ピープルはペンシルビルの二階にあった。昔のままの狭い急階段を上がると、見覚えのある赤いソファーが古びたままに配置されていた。
古希に近いマスターは相変わらずの黒のベストに蝶ネクタイ姿だった。若い頃は時代の先端を行く傾奇者だったが、頭髪はすっかり薄くなっていた。
「いらっしゃいませ、お久し振りですね」
昔は帰省の度に寄り集まっていたので、マスターは覚えてくれていた。
「駅前は寂れるばかりですね。地方はドーナツ現象で、どこも旧市街地の再活性化に苦労しているみたいですよ」
週刊誌の記事をそのままマスターに受け売りした。

「ヤマ(炭鉱)が閉山してからは街も年々寂れて、若者も都会に出て行ったきりです。ふるさと創生とかで税金をバラまいても、工場団地は誘致も進まずに空き地に雑草が生えていますよ……」
ピープルは盆前にもかかわらず客がいなかった。かつては若者のサロンのような役割を果たして賑わっていたので、町の情報はマスターに訊けばよかった。
「吉川さんが亡くなったのをご存知ですか? もう十五年前になりますが……。確かお客さんは彼と知り合いでしたよね?」
吉川弘文が療養でUターンした頃、偶然にこの店で会ったことがあった。マスターはその時のことを覚えていたのであろう。
「吉川弘文さんでしょう。随分前にこの店で一度お会いしましたが、亡くなったのですか?」
柊の前夫の死に、思わず大きな声で訊き返した。
「ええ、彼は離婚後に前妻の妊娠が分かったとかで……。その子の成長だけが楽しみだと言って頑張っていたのですが……」
新しい客が来たために、マスターは話を途中で切り上げてカウンターの方に戻って行った。
吉川が自分の子であるかのようにマスターに話したのは、どういう理由があったのか分からなかった。秋津柊の子供が吉川の子供でないことは私だけが知っている事実であった。

 喫茶店を出ると、商店街を歩いて実家に帰った。八百屋は息子に代替わりしていたが、昔ながらの個人商店だった。映画館は撤去されていたし、花火を売っていた雑貨屋もなくなっていた。
八十歳過ぎの母はいつものように盆の準備をして迎えてくれた。東京の土産を仏壇に供えながら嬉しそうに言った。
「お帰り、孝夫はお父さんの享年を超えたのね……。私はそれが気がかりでね。
私には子供の元気が何よりのお土産だよ。明日は池澤さんの初盆だろう、生前は何かとよくしてもらったから……、もっと長生きして欲しかったのにいい人を亡くしたね」
母は二十年の不義理を愚痴るでもなく、明日の盆の入りはご先祖様を迎えに墓参りに行こうと誘ってくれた。
前妻の新興宗教で母を悲しませたが、母は四十歳代で寡婦になって苦労の絶えない人生を送っていた。それでも母の愚痴を聞いたことは一度もなかったし、気難しい父のことも首を傾げたくなる程、持ち上げるばかりであった。
今と違って昔の嫁は郷に入って従っていたのであろうが、この年になって初めて母親の偉大さに気付いた。

実家は妹が継いでいたが、国道の拡幅でセットバックして建て替えていた。そのために離れ家は解体していたが、この裏庭で三十七年前の盆に秋津柊と再会していた。
朝顔の棚は昔のままに竹で組まれて紫の花をつけていた。この朝顔の実を秋津柊と分けあって再会することを約束したのである。その約束を破ったばっかりに、母や柊までも巻き込んで苦難の人生路に迷い込んでいた。


池澤捷一の初盆
翌日十三日の盆の入りに、母と中学校の裏手にある矢納家の墓参りに行った。昔ながらの耳が壊れるかと思うくらいに蝉しぐれの洗礼を受けた。
父親とは高二の墓参が最後になったが、その時の父親のように背負子の形を作って「親父殿どうぞ」と、ご先祖様の霊に声をかけた。母は私の動作を見て笑っていたが、今の私はその時の父よりも年上であった。
昔は墓といっても路傍の石が置いてある程度の粗末なものだった。現在は御影石の墓にまとめて納骨されていた。
『孝夫が久しぶりに帰ってきました……。私はもう少しやることがありますので……、それが終わったら忘れずに迎えに来てくださいよ』
墓石に話しかける母の背中は小さく見えたが、病気知らずの母も八十路に入っていた。農地は休耕田になっていたが、まだ若かった母に反抗していた頃が懐かしく思い出された。

眼下には中学のグランドが見えたが、休みで人影はなかった。母校の懐かしい木造校舎は鉄筋コンクリート造のきれいな校舎に建て替えられていた。
「お父さんは自分で死を悟ってからは、入院もしないで家で静かに死を迎えたの……。それがお父さんの生き方だったのね……」
母は墓石に話しかけていたが、それは私に聞かせるためでもあった。