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酔生夢死の趣意

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4.酒封じの神



 神様になる武将というのは案外多いものだ。

 信長、秀吉、家康の三英傑はもちろん、謙信、信玄、元就といった有力大名の多くも、大概は神格化されている。国外だとやはり関羽が有名だろうか。やはり偉大な人物は、当時だけでなく後世でも敬われるものなのだろう。

 さて、そんな神となった武将たちの中に、ちょっと変わった人物がいる。今日はその話をしていきたいと思う。

 本多忠朝。1582年に、本多忠勝の次男としてこの世に産声を上げた。本多忠勝といえば、徳川四天王の一人で、かの名槍、蜻蛉切を手に戦場を縦横無尽に駆け回り、傷を一つも負わなかったという名将だ。某ゲームでロボットみたいなやつと言われれば、戦国時代を知らない人もピンとくるかもしれない。他に血縁で有名なのは、真田信之に嫁いだ姉の小松姫だろうか。関ケ原合戦の際、上野沼田城で、敵方に回った義父の昌幸と義弟の信繁を追い払う場面は、さすが名将の娘と感心させられるものがある。

 猛将の息子として生まれ、気丈な姉を持った忠朝は、順調に育ち元服すると1600年、父に従って東軍として、関ヶ原の戦いに参加することになる。このとき19歳。教科書にも載っている大きな戦が初陣だ。初戦が関ヶ原というだけでも「持ってる」のに、さらに忠朝はこの戦で大活躍をする。関ヶ原といえばまず挙がるのが、島津義弘隊の敵陣の正面を突破しての退却という、およそ島津でなかったらきちがい以外の何者でもない行動だが、その薩摩兵を、二人も討ち取る活躍をして見せたそうだ。

 名臣の血筋と関ヶ原の活躍。この二つのおかげで関ケ原の後、忠朝は上総 (今の千葉県)の小多喜(おたき)という場所で5万石を得て大名となった。この地はもともと、父忠勝が治めていた地で、父が別の場所に移ったのを忠朝が引き継いだ形になる。

 この小多喜に移ってきた忠朝。彼はこう言ったと言われている。

「喜びが多いなんて、これほどいい土地はない。ならば小さいではなく大きいにしてしまおう」

こうしてこの地は、小多喜から大多喜(おおたき)になったそうだ。正直、どうも眉唾だが。

 ともかく、一国一城の主となった忠朝。彼は、付近の国吉原や万喜原の新田開発を命じている。また、近海でスペイン船が難破し、300人余りの乗客が領地内に上陸した際にはこれを保護し、温情のある措置を取ったとも言われている。他にも、父が死の間際に渡そうとした金を、兄の忠政と譲り合ったり (結局折半した)と、評価に値する統治や人間性が垣間見える。

 さて、ここまでわりと順風満帆に生きた忠朝だが、ここから人生に曇り空が広がっていく。1614年、忠朝33の年。大坂冬の陣が起こるのである。

 忠朝は間違いなく、豊臣には何の恩も感じていなかったはず。既に鬼籍に入っている父も、現当主の兄も、先述の小松姫の夫、信之も徳川についている。忠朝ももちろん、徳川方として存分に活躍する。
 だが、ここで大きなミスをやらかしてしまった。今まで書いてきた事跡ではそぶりも見せなかったが、忠朝は大の酒好きだった。このときも戦の待ち時間に酒を飲んでいたらしく、ふらふらのまま敵と戦うことになり、不覚を取ってしまったらしい。
 冬の陣自体は何とか生き延びることができたが、家康は忠朝をこっぴどく叱ったそうだ。なまじ父が優秀な忠臣だっただけに、そのお説教はさぞかし激烈であっただろう。

 その翌年。
 人々のさまざまな思惑を抱え、大坂夏の陣が起こる。もう戦はないと見越して、生きて最後の大功を挙げんとするもの。平時に居場所はないと覚悟し、死して栄誉と名を残さんとするもの。
 はたして忠朝はどちらだったのか、それは分からない。冬の陣の汚名を返上して生き残ろうと考えていたのか、家康に叱られた恥を雪ぐために死を覚悟していたのか。

 どちらにせよ、忠朝はこの戦いで命を落とした。毛利勝永という、戦国マニアの中には真田信繁よりも強かったのではないか、という意見もある男が率いる部隊を相手にし、34歳で華々しく討ち死を遂げた。そして、その今際の際にこんなことを口にしたという。

「戒むべきは酒なり、今後、わが墓に詣でる者は、必ず酒が嫌いとなるべし」

 冬の陣での酒の失敗を、よっぽど後悔していたのだろう。彼はこの最後に残した言葉のおかげで、酒を嫌うものの間で神と崇められることになる。そして、酒封じの神ということで、彼の墓所には断酒を祈願をする参拝者が現在もやって来るそうだ。


 つらつらと書いてきたが、彼の足跡を振り返って個人的に思うことがある。

 まず、酒封じの神として崇められているわりには、酒での失敗が冬の陣の一つしかない。初陣から大名となり、大坂に至るまでの15年、酒での失敗はもちろん、失敗自体が見られない。初陣での活躍は言わずもがな、大多喜での治世も特に何かがあった様子はない。しかも、それ以上に酒に関するエピソードもネット上では見られない。無論、史実ではいろいろとやらかしていたのかもしれないが、後世に伝わるほどではなかった、という言い方もできる。
 そういう意味では、この男、ちょっと酒に関する神としてはふさわしくなさそうだ。たった1回、酒で失敗したというだけ。それで、400年たった今でも酒封じの神として崇められている。でも、それがどうも奇妙で、興味深くて、面白いと個人的には思ってしまう。

 人生、何があるか分からない。お酒が飲めないあなたも、死後、お酒の神として崇められるようになるかもしれないし、私も死んだ後、思いもかけない存在の神に納まっているかもしれない。そういうよく分からない縁というのを、私は本多忠朝という武将から感じるのだ。


作品名:酔生夢死の趣意 作家名:六色塔