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三すくみによる結界

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。あしからずです。作中に出てくる「開拓ゲーム」は、フィクションです。類似ゲームとは関係ありません。

                 それぞれの時代

 世の中には、
「三すくみ」
 という意味深な言葉が存在する。
 いわゆる、
「AはBには強いが、Cには弱い。BはCには強いが、Aには弱い。したがってCはAには強く、Bには弱い」
 という三段論法が成立することになるのだが、遊びの世界では、じゃんけんなどがそうであろう。
 また、虫拳と呼ばれるものも三すくみの代表例で、
「ヘビはカエルを飲み、カエルはナメクジを一飲みで飲み込んでしまう。しかし、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」
 と言われるものであり、
 これは一種の自然界のバランスを形成する上で必要とされるものであろうが、人間界でも、えてして、このような三すくみは成立するものなのかも知れない。
 それぞれの勢力は突出したものを持っているが、それぞれで睨みを利かせていることで、容易に戦闘行為が起こらないという制止の意味でも必要なものだと言えるだろう。
 そんな三すくみであるが、広い範囲に限らず、狭い範囲でも、ところどころでも散見されることであろう。個人同士で本人たちが認識しているか、していないかという意味でも大きく様相が異なってくるであろうが、うまく抗争にならずに済んでいる場合もあるだろう。
 だが、逆に一触即発という意味も孕んでいる。今はそれぞれで距離を微妙に保つことで力のバランスを保っているが、そのうちの一方が崩れたり、勢力を堕としたりすれば、状況は一変してしまう。
 特にその三人が同性であったりすると、力の均衡が破れると、どのようになるか、想像を絶する場合もあるだろう。
 特に女性であったならを想像しただけで、背筋に寒気を感じるのは、一人や二人ではあるまい。
 前述のように、その関係は、まわりには結構見えているもので、一番よく分かっているのは、その三人に利害関係を持っている人であろう。そのうち一人に対して持っているか、三人全員に持っているかということも重要で、一人に対して持っているだけであれば、すぐには分からない。だが、自分も渦中に巻き込まれでもしたらどうなるかと考えた時、この状況を利用するという画期的でアグレッシブな考えを持つ人もいれば、
「君子危うきに近寄らず」
 とばかりに、うまい機会を設けて、その関係から身を引くことを考える人もいるだろう。
 そういう意味では断然後者の人の方が多い。その理由として、
「自分が関わることで、三すくみを崩してしまい、せっかく保たれている力の均衡が破れてしまい、予期せぬ災いを自ら招いてしまうのではないか」
 と思うのだ。
 この三すくみの関係は、一種の、
「平行線というものは、決して交わることはない」
 という幾何学的な定義にも似ていて、裏のものが表になったり、表のものが裏になったりしないように、抑制しているとも言えるだろう。
 その関係は、少し離れたところ、いわゆる「対岸」と言われるあたりにいれば、よく理解することができる。内部に入ってくればくるほど、分かりにくいもので、一番分からないのが、その全体像である。
 どれほど大きな範囲にこの三すくみが影響しているかということを、きっと当事者になってしまうと分かるという方が不可能であろう。
 それこそ。平行線を交わらせようとでもするかのようなものであり、無謀を通り越してしまい、理屈を超越したものになるのではないだろうか。
 三すくみの関係が、まわりに存在していることを予感しながらも、その実態が見えていないとするならば、ひょっとすると、自分がすでに渦中にいるということも言えるかも知れない。
 飯塚つかさは、子供の頃からいつも似たような環境を繰り返しているような女性だった。今は二十五歳になっていたが、これまでに何度か、こんな三すくみの関係が自分にあったような気がして仕方がなかった。それはもちろん、自分が望んだことではなく、すべてが運命のいたずらだったのだと自分に言い聞かせてきたが果たしてどうだったのだろうか。
 まずは小学生の頃だっただろうか。まだ十歳にもなっていなかったと思った。あの頃は三すくみなどという言葉を知る由もなく。ただ、じゃんけんという遊びがあって。ただ、勝ち負けをつける遊びだというだけの感覚で、その特有性に気付くはずもなかったのに、自分がまわりの人と三すくみのような関係にあることをウスウス気付いていたような気がした。
 それは少し異様だった。つかさが頭の上がらないのは、年下であり、逆につかさに対して頭が上がらないのは、年上だったのだ。逆に二人は年下の方がもう一人に頭が上がらないという立場的には妥当な感じだったのだが、その三人のバランスは均等だったような気がする。
 つかさが小学生だったその頃は、学年をまたいで仲良くなるということはあまりなかった。そもそも同学年でも仲良しがあまりいないという、ちょうどそんな時代だったのかも知れない。
 相手に対してどこか疑心暗鬼で、心を許すと、自分にロクなことにならないという思いが、皆暗黙の了解のようになっていたのだ。
 それだけに、人に対して、
「自分の弱みを握られないようにしよう」
 という思いが結構あって、小学生の低学年のつかさにもあったのは確かだった。
 だが、自分よりも年下の子には、さすがにそんな気持ちはないようで、つかさが頭の上がらない立場になったその子は、純粋につかさを見ていただけなのだろうが、つかさはその視線を知りながら、どうすることもできず、
「弱みを握られてはいけない」
 という思いから、余計に自分のうちにあるものを表に出さずにはいられなかった。
「自分のことを見てほしい。見られたい」
 そんな性癖を自分が持っているということを、もし最初に知ったのが、いつなのかと聞かれたら、きっと小学生の低学年のこの時だったと答えることだろう。
 だが、その男の子は、つかさのそんな気持ちを知るはずもなく、ただ、
「見ていたい」
 と思っただけだったのかも知れない。
 もちろん、見られたと言っても、そんなに気にすることではないことだったのだろうが、つかさには、見られたという感覚を打ち消すことはできない。
 なぜなら見られたことで得られた快感までもを否定しることになるからだ。
 羞恥と快感を否定することのどちらを選ぶかと言われれば、羞恥を上ラブ。それがつかさの持って生まれた性癖への答えだった。
 その男の子から、その後近寄ってこられることはなかった。だが、絶えずその少年の視線を感じ、勝手に快感を貪っていた。
作品名:三すくみによる結界 作家名:森本晃次