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ミューズ

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 自分のことを美しいと思ったことはない。籠のなかの鳥だと思ったこともない。悲観とも憐憫とも縁がないし、実際、周囲を取り巻く環境は、正常とはいえないまでも、悪しきものともいえず、とくべつ不満も違和感も抱いていなかった。神経が麻痺しているといわれれば、頷かざるを得ないだろう。しかし、13歳から毎日おなじ生活をつづけていれば、多少なりとも慣れるに決まっている。年齢からいっても、それはしかたのないことだった。
「おめでとう、イヴ」
 仕立てのいいスーツを着た中年が手を伸ばしてきた。握手に応じ、如才ない笑顔を返す。
「銀幕デビューも果たしたか。このままいけば、ちかいうち、海外進出かな?」
「あたしには、今だって夢みたいなものです」
 謙遜してみせながら、目の前の中年男を即座に観察する。同時に、頭のなかのファイルを捲る。映画を銀幕という旧いセンス。派手なネクタイ。過剰に若づくりをしたヘアスタイル。ファイルの1ページで手を止め、素早く見較べる。
「ここまでこられたのも、坂崎さんのお力添えがあったからですわ」
「いやいや、わたしはなにもしてないよ」
 中年男は上機嫌でシャンパンを口に含んだ。
「きみの魅力ゆえだ。まったく、すごい女性だよ」
 皮肉と媚が混在する言葉に、迎合の笑みを浮かべてみせる。茶番劇。あと数時間は終わらないだろう。
 パーティ会場は業界人で溢れていた。最新の高級ブランドに身を固めた男女。しかし、おれが着ているドレスに勝るものはない。今夜の主役に相応しい、スパンコールにダイヤをあしらったタイトなロングドレス。手に持ったグラスのなかでは、ジンジャーエールの泡が弾けている。きつい酒が飲みたい気分だった。
「失礼」
 中年男との間に割りこむようにして、長身の男が身を寄せてきた。
「彼女をお借りしてもよろしいですか?」
 写真家の戸張を知らない人間がこの場にいるとは思えない。中年男は当たり障りのない笑顔で引き下がった。
 戸張はひとりではなかった。グレーのスーツを着た地味な男がそばに立っている。ファイルを捲りかけた手を止め、会釈した。
「こんばんは、安達さん」
「ぼくをおぼえていてくれたんですか?」
 安達は心底嬉しそうに相好を崩した。
「もちろんですよ。いつもお世話になってるんですから」
「そんな……」
 やや腹の出た体をおれの視線から隠すように縮こまらせて、安達が口ごもる。まるで中学生のように、耳まで真っ赤になっていた。
「こんどの写真集にもかかわってるんだよな?」
 戸張に話を振られ、安達はいっそう顔を紅潮させた。
「いや、おれなんかは、裏方の裏方だから」
「安達さんが弄ってくれなきゃ。素の顔は見せられたものじゃないもの」
「そんなことありませんよ!」
 おれの差し出した手を恭しく握って、安達は興奮気味にいった。
「実際のところ、ほとんど手なんか入れてないんです。デジタルの力を借りるまでもない。あなたはじゅうぶん美しいですよ」
「あら」
 おれはグラスを持った手を口のちかくに持っていき、笑った。
「それって、たしか前にもうかがいました」
「そうでしたっけ」
 安達が頭を掻く。
「イヴ。グラスがもう空だね。なにか飲みものを取ってこよう」
 肩に手を置く戸張を、安達に気づかれないようにさりげなくにらみつけた。
「ウォッカを」
「了解」
 戸張が片目を瞑ってみせる。外国暮らしが長いせいで、そういったしぐさもごく自然に見えたが、間違いなく、持ってくるのはジンジャーエールだろう。
「それで、安達さん」
 ふたりになると、おれはこれ以上ないほどの妖艶な微笑を浮かべて安達を見つめた。
「今日はどんなお言葉で持ち上げてくださるんでしたっけ?」
「持ち上げるだなんて。ぼくは本心を述べているにすぎません」
 安達は真剣な表情だった。兵隊のように背すじを伸ばし、おれを見上げた。安達の身長はごく一般的だろうが、180センチを越えるおれがヒールの高い靴を履けば、ほとんどの男を見下ろすことになる。
「あなたはぼくのミューズです。まさに理想の女性そのものだ」
 おれはグラスを持った手の肘に指をあてて、首を傾げた。そうしてみると、たしかに神秘性を帯びるだろうと自認したうえでの行動だった。安達が息を呑む音が聞こえてくるかのようだった。
「信じてくれないんですね」
「そういうわけでは」
「ぼくの仕事は、あなたの写真を見つづけることです。たぶん、撮影する戸張よりも、編集者よりも、長い時間、あなたを見てきています。そのぼくがいうんですから、間違いありませんよ」
 思わず噴き出してしまいそうになった。実際に、眉間に皺が寄ったはずだ。しかし、ちょうどもどってきた戸張のほうに安達の注意が向き、その瞬間を見られずにすんだ。
「さあ、イヴ。乾杯しよう」
 戸張の手からグラスを受け取り、乾杯した。乾きはじめた喉に澄んだ色の液体を流しこむ。
 グラスの中身はジンジャーエールだった。

「まだ気づいてないの?」
 ベッドのなかで肘をついて、おれはいった。
「なんのこと?」
「とぼけるなって。安達だよ」
「ああ」
 戸張はバスローブを着ていた。小ぶりのグラスにウォッカを注ぎ、おれに手渡す。
「あいつは昔からああだからな。変わってるっていうか、天然っていうか」
「あんたもじゅうぶん変わってるけどね」
「そりゃどうも」
 褐色を口に滑りこませる。喉が焼ける感触が心地よかった。
 安達と戸張はほぼ同時期におなじ師匠に弟子入りして写真を学んだが、安達は途中で写真の道を諦め、いっぽうの戸張はイギリスに渡って成功を収めた。今では世界的に名を馳せる高名な写真家だ。
 安達のほうはカメラマンにこそならなかったが、写真の補正が専門のリタッチャーとして、それなりに実力を認められていた。
 とはいえ、戸張に紹介されるまでは、そんな職種が存在することも知らなかった。モデルとして活躍するおれの周囲には、プロデューサー、スタイリスト、アシスタントにいたるまで、ありとあらゆる職種が顔を揃えている。自分の黒子を消したり、皺を取り除いたりする人間がいることは知っていても、実際に意識することはすくない。
 それでも、安達のことをはっきりとおぼえていたのには、それなりの理由がある。
「いくらなんでも、何回かは実際に会っているわけだし、もうわかってくれていてもいいんじゃないかと思うけどね」
 戸張の掲げるボトルに向けてグラスを差し出すと、おれの肩から毛布が滑り落ちた。きついパットとドレスから解放された薄い胸が露になる。
「そこがあいつのいいところじゃないか」
「おもしろがってるだけだろ」
 おれはあからさまに嫌な顔をしてみせた。
「祐輔が教えてやればいいだけの話なのに」
「おれはおもしろがってるんだよ」
 不良のような表情で、戸張がいう。安達と仲がいいのも理解できる。18歳のおれから見ても、こいつら、まるで子どもだ。
「おまえが男だってことは全国民が知ってるのに、あいつだけが知らない。こんなおもしろいことあるか?」
 おれは首を窄めて、新しいウォッカを啜った。
作品名:ミューズ 作家名:新尾林月