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親父のマドンナ

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酒を飲まない人だったから滅多になかったが、飲んだ時の親父の口ぐせは、
「But Bcause impossible」だった。ナポレオンの言葉らしい。
 若い頃、酔っ払うと僕も良く「not or all」と言っていた。良く似た親子だと思っていたが、考えてみると親が子に似ることはない。僕が親父に影響されていたのだ。
 
 しかし、モノの考え方は違っていた。文字通り、親父には不可能がなかった。出来ると思ったら突き進んだ。
 僕はゼロか100かを考える。いくら考えても「こりゃあダメだ!」、そう思ったら反対した。
 これこれの理由で、ダメだ!と僕がいう。
 そんな事はない!と親父が言う。
 楽観的な父と、悲観的な息子。残念ながら結果的に、僕の言う通りになる事が圧倒的だった。そうなると親父が怒るのである。
 「お前の言う通りになったら、苦労はしない!」と。俺は考えに考えたのだ、そう言いたいのだろうが、父の発想には希望的観測が多々あった。少なくとも、他人の甘い言葉を全力で信じられる程、お人好しだったのである。
 
 二十歳になり大学受験を諦めてから、父親の仕事を手伝い始めた。それから24歳で袂を分かって独立するまで、度々衝突した。というより、右が左かを決めなければならない時は、ほとんど正反対の立場になった。 
 僕対父親家族という構図になり、僕に勝ち目はなかった。というより親父は物事を既に決めてきていて、全ては事後報告だった。
 墓石の陳列場を新たに作れば売れるようになると考えて、高利貸しから金を借りて店舗を作り替える。
 左右にある店もちゃんとした製品を並べてるし、そんな中途半端な展示をしてもダメだと僕がいう。結果的には何も売れずに、残ったのは借金だけ、そしてその返済の交渉の役割は僕に回ってきた。
 これ以上詳しくは書けないが、銀行の手形を引き落とす為に、サラ金にお金を借りまくって、既に40軒余りのサラ金を抱えていた父は、何とか起死回生を手を打ちたかったのだと思う。しかし空回りしていたのだ。
 いろんな事があったが、父親と暮らすことに限界を感じた僕は、家を出ることを決め、そして籍も抜くことを決めた。母が再婚していたので、その姓を名乗ることになったのである。

 独立時の全財産、20万円。半年前からもらえるようになった最後の給料一ヶ月分。
 商売道具は、メジャー一個と営業用の写真入りファイルノート一冊。
 その後、渡りに船のように石材運搬車や軽トラックが湧いて出てきた??
 霊感のある拝み屋さんの女性や、別の霊感のある女性からも何故か目を掛けてもらい、仕事を紹介してくれることになった。ただいつのことかは分からなかったが。
 最初の1年間はほとんど仕事も取れず、何でも屋のアルバイトで糊口を凌いだ。人生で3回あった、ほぼ無一文でのリ・スタートの1回目だった。

 29歳までの5年間、いろんな方の助けを借りて墓石屋を続けた。一年で2.000万円売り上げた年もあったし、慣れない営業活動にも精を出した。
 ただ、どうも商売がうまくいかない。お金が取れないのだ。前金を貰い準備を進め、完成してもらうお金が利益になったのだが、支払いをしたらお金が残らない事が3回はあった。
 
 ある奥さんのお話。ご主人が自殺して、お金はないけど何とかお墓を作りたいと相談を受けた。奥さんの熱意に心を打たれた僕は、考えた。
 親父が迷惑をかけた石屋さんに頭を下げて、製品をおろしてもらっていた。基礎だけは自分で作って、最後の仕上げまでしてもらう契約だった。しかし、それでもやはり墓石は値が張る。最低でも3、40万は掛かるのだ。
 墓石の仕入れのお金、プラスセメントなどの材料代で墓石は完成する。利益、ゼロである。自分の分を減らせばお墓は立った。だから、最終の支払いが終わった途端、アルバイトを考えなければならなかった。
 親父も商売が下手だと思っていたが、まだ取れる人からは取っていた。僕は安くした値段からもう一つ安くする、商売人とは言えない人間だったのである。

 ある時、お世話になっていた墓石屋の社長からとうとうお叱りを受けた。
 「お前は自己満足で仕事をしている。我々には従業員もその家族もあるんだ。相場を乱すな!」
 その通りだった。仕事を辞めよう。僕は決断した。

 仕事を辞める決断をした時、次の目標が決まった。四国遍路である。遍路というよりも、四国を放浪して次の人生を考えようと思いたった。
 ただ、お金がない。そこでもう一つのアイディアが浮かんだ。10年掛かって書き上げた小説を、製本して売ろうというのだ。本代千円、カンパ千円、二千円で売ることにした。
 大学の近くにあるコピー屋さんに、試しに相談に行った。原稿用紙100枚程の小説を製本出来ないかと。
たった二行しか表示されないワープロで、全て印字だけはしてあった。
「他の方に言ってもらったら困るんですけど、四万円で、50冊、製本しましょう。」そう言ってくれたのだった。
 
 小説は出来上がった。見かけは安っぽかったが見てもらう、読んでもらうだけの価値は有ると思っていた。そして、本を持って知り合いを訪ねて、カンパのお願いをして回った。
 本代千円、四国旅行のカンパ千円、お礼に四国から絵葉書を送ります、そう言ってお願いして回った。
 ぃま現在、一冊の自分用の本があるだけで、残りは全て完売した。そして四国旅行の資金も二十万円貯まったのだった。
 一番大好きな先輩にもお願いに行ったのだが、カンパはするけど、本はいらないと言われた。実は彼には、カーボン紙を重ねて手書きで作った原稿用紙の本を贈っていたのである。
「あの本の方が価値があると思うし、他の人に売ってあげて」そう言えば、原稿用紙100枚で5冊、手書きしたこともあったのです。平安時代か??

 その頃は、親父の所へも何度か顔だけは出していた。
「お前は何も分かっていない!」一緒にいた頃、父は良くそう言っていた。しかし、自分1人の力で商売を続けている息子に対して、彼の態度は一変していた。
 帰る時、店先に立った父は深々と頭を下げて見送ってくれた。バックミラーに映る父の最敬礼の姿に、僕は僕の知らない父を見たのである。

 僕は出来上がった本を父の所へも持っていった。父からお金を貰おうとは思っていなかったが、旅行へのカンパをしてくれた。
 
 浪人を諦めた時、父は言ってくれた。
「100万用意するから、世界中、何処でも好きな所へ行ってこい!」何でもいいから自慢できることを持って欲しい!父が子供達に願っていたのは、それだけだったと思う。
 家業や借金苦で受験を諦めたこともあったので、父の思う通りにはならなかった。100万円どころではなく、そこからがまさにサラ金地獄の始まりだったのである。でも僕は、父の言葉が本心であることを知っていたので、100万円も世界一周も、父の言葉だけで嬉しかった。
 
 本を作った経緯や、四国旅行のカンパの話をして、僕は父に言った。
「また来るけど、読んどいてよ。感想を聞きに来るよ。」そう言って、父に見送られながら、僕は帰っていった。

 苦しみは喜びの深さを知るためにある
           チベットのことわざ
作品名:親父のマドンナ 作家名:こあみ