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いつか嘆いた絶望よりも深き声を 聞く

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兄さんはいつも外を見ていた。墨汁を煮詰めたような瞳にはなにも映っていないようである。俺の生まれた家系は旧家だったので長子である兄さんは寵児であった。
なにもかも全部兄さんの為にこの家は回っていた。母親の腹から出るのが数分遅かっただけなのに、この仕打ちは酷いと嘆いてせめて教養くらい兄さんの上を行こうとしたのに、勝てはしなかった。
唯一勝てた事を無理矢理に思いつこうとすれば、体力だろうか。兄はいつも季節が変わる毎に風邪を拗らせていたけれど、俺はケロリとしていたし。
今日も兄さんは部屋にあつらえられた小さな窓から外を眺めていた。ぬばたま色をした目は虚ろで生きている事さえ放棄しているようだった。毎回、その目を見て嫌になるのだ。必死に歯を食いしばって苦労している自分より、死人のような兄さんが優れているのが悔しくて堪らなくて、この手で殺せたら、貶められたら、両親に讒言する事が出きれば、と逢う度に考えていた。
「兄さん、なに考えてるの」
「……別に、なにも」
声をかければ、今やっとこちらの存在に気付いたかのようにこちらを見られた。その調子じゃ顔を凝視していた事にも気付いていないだろうな、と思った。
「なんで、外ばかり見ているの」
「どうして気になるんです」
目を完全にかち合わせもせず、けれどそっぽを向かれる訳でもない中途半端に顔を合わせながらくきり、と首を傾げた兄さんは血の気のない手で膝に寝転がっている犬を撫でていた。これも兄の意見が通って飼い始めたものである。俺は猫がよかったのに兄さんが「犬がいい」と言った途端に買ってきた室内犬である。
「理由は必要なの。俺が兄さんに話し掛ける理由は」
椅子から立ち上がってから兄さんに近づき、犬が兄の膝で吼えているのも無視して(なぜだか俺には懐かなかった)首根っこを掴んで立ち上がらせれば、一瞬驚いたように目を見開いたもののすぐに元に戻って不思議そうに尚も首を傾げていた。
「別に。まなぶには悪い事を沢山したから、目が合わしにくいだけで」
俺の名前は愛情の愛と書いてまなぶと読む。それを心底嫌がっていたのを知っていたからか、小さく発せられた名前に今まで溜まっていた怒りが爆発した気がした。
「いいよね兄さんは。俺とは違って大事にされて愛されて! 俺の名前は兄さんの方が似合うんじゃないの?」
犬がけたたましく吼えているけれど、そんな事知った事か。腕を下に降ろすのと同時に兄さんの肩は床へと落下して、苦しそうに噎せかえっていた。
その涙ぐんだ女みたいな顔を見ると、加虐心が首をもたれてきて、無意識のうちに首筋を指で締め付けていた。
苦しい、苦しいとはじめは腕をもがいていたけれど抵抗する気力さえ失ったのか大人しくなった。殺してはいけない、と腕を離せばけほけほ辛そうに息継ぎをしながらこちらを見つめてきた。相変わらず焦点がわからない瞳はどこか恍惚した色をしていて気味が悪くなった。
「兄さん、気持ち悪い。どうして悲鳴をあげないの。嫌がらないの。悦に浸った笑みをするの」
尋ねれば兄はまた目を逸らして、口を聞きたくないといった素振りを見せた。
「兄さん、なんで、どうして、どうして黙るの。俺に教えてよ、俺は兄さんと違うから言ってくれなくちゃわからないの。兄さん、ねぇ兄さん」
手持ち無沙汰になっていた自分の腕は、いつの間にやら兄を殴ることに専念していた。骨と骨がぶつかり合う嫌な音が響いたけど、止まる事を知らなかった。一発一発殴る毎に心が晴れるかと思ったのに駄目で、それでまたイライラとしてきて、また殴るという悪循環の限りである。
「ねぇ、どうして抵抗しないの。護身術は嗜んでるでしょ? 武術だって俺より兄さんの方が上手いじゃない。ねぇ、抵抗してよ、俺が報われない!」
拳が血に塗れる事はなかったけれど、兄さんの白い肌には青い痣が点々と広がっていった。けれどなにも抵抗をしない癖に口を開いてとんでもない事を言い出したのだ。
「ぼくはきみと目を合わすのが苦手です。だって、毎回血が繋がっていなかったら、と思ってしまうから」
「は。それは俺が出来損ない、ってコト? そうだよね、俺は兄さんになにで勝負しても勝てないもの」
あはははは、と笑いながら首を絞めれば、今度は俺の腕を引っ剥がそうと躍起になっていた。なにか言いたい事でもあるのだろうかと手を離してやれば、咳き込みながらも言葉を紡いでいく。
「だって、……だって」
「だって? ほら言ってみせてよ」
鎖骨の上をぐいぐい押してやれば、目を涙が零れんばかりに潤ませてこちらを見てきた。
「だって。きみと血が繋がっていなかったら、好きだって、言えるのに」
異国に行けば結婚だって出来るのに、と泣きながら言う姿はさながら幼児衰退したようだった。何年も遡ったような幼い表情で、赤らんで腫れた眼を手で擦っている素振りは同い年という事を忘れる。それに加えて発言された台詞に戸惑いを隠しきれなかった。新手の冗談なのだろうか、けれど兄はその手の嘘を吐くタイプではないだろうに。驚きで呼吸するのを忘れてしまいそうだ。
「兄さん、気持ちの悪い、事、言わないでよ。俺の事が好き? きっと気の所為だって」
この理解できない要素を潰す為に、首を絞めたら記憶が飛ぶかもしれないと、ありもしない事を考えながら指を首に掛けた。けれどなぜだか上手く絞められなくて苦戦していたら、兄はにっこりと笑ってみせた。
「……嘘じゃ、ないですよ。ぼくは嘘を吐く人が大嫌いですから」
「じゃあ、なんで? どうして俺が好きだなんていうの。俺は嘘吐きだよ、なにもかも本当の事なんて言わないのに!」
彼の鎖骨の上に手をたてて感極まったように叫んだからか、骨からばきりと嫌な音がして掌が陥没した。どうやら骨折させてしまったらしい。あぁ、俺の所為で治りにくい怪我を負わせてしまったものだと思った。変な気分だ、さっきまで殺そうとしていたのに骨が折れた程度で心配しているだなんて。
「だって、まなぶの嘘は、わかりやすくて、嘘なんかにはならないですよ」
ふふと、どす黒い色をした眼がこちらに向かって笑ってきていた。白い磁器のような腕が俺の方に伸ばされてきて目尻を拭われた。
「ほら、泣いてる」
指先についた涙を爛れたように紅い舌で舐めてしょっぱいと呟きながらも笑う兄に釣られて、自分も不器用ながら笑みを浮かべているのを他人事のように感じた。