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夜が明ける(上) 第98回オール讀物新人賞最終候補作

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 二挺の駕籠が漆黒の闇のなかを疾駆する。
 たよりは、棒鼻につけた提灯の心許ない灯だけである。
 刻は子の上刻(午後十一時)。静寂の底に沈んだ街道に聞こえるのは、「はん、ほぉ、はん、ほぉ」という駕籠舁きの掛け声と、
そのあとにつづく肩替わりの駕籠舁き人足十四人の足音だけである。
 提灯の明かりにぼんやり照らし出される小石まじりの路面は、ついさきほどまで降っていた雨をふくんで、先を急く足を阻む。
「急げ、急げ」
 後ろの駕籠から、野口伝乃介の怒鳴り声が聞こえた。
 あいつは若い、と前の駕籠に乗っている山縣正太夫はなかば気を失いそうになりながら思った。五十六の身体には、激しい揺れに堪えるだけで精一杯で、
声を出す気力も残っていない。
 早駕籠を仕立て、麹町の江戸屋敷を発って今日で三日目である。
 吊り紐にしがみつき、舌を噛まないように手拭いをくわえ、激しい揺れで内の腑が傷まないよう晒し布をきつく巻いているが、
身体は一日目で早くも悲鳴を上げた。目が眩み、全身が軋む。
 半刻(一時間)ほどまえ、京の東寺を過ぎて西国街道に入ったから、残すは二十里あまり、お城まではあと一日だろう。
 正太夫の懐には、江戸家老有賀喜久左衛門の書状がしたためられている。それは、松平家の禍難と悲運を伝える報せだった。
恐れていた最悪の事態が現実のものとなってしまったのだ。もっともそれは、いずれその日が来るとわかっていたことだった。
 禍根は、今から十二年前にさかのぼる。そのとき家中の者はうちひしがれ、世の不条理を呪ったが、声を大きくしていえることではく、
ただ堪え忍ぶしかなかった。そしてそれはいま決定的なかたちを成して御家に降りかかってきたのだった。
 二人の急使を乗せた駕籠は昼夜わかたずひた走り、郡山宿本陣、瀬川、昆陽、西宮と宿駅を駆け抜けて、播磨明石の城に着いたのは、
翌日暮れ六つ(午後六時)すぎのことだった。
 駕籠から崩れ落ちるように出てきた正太夫と伝乃介は、息も絶え絶えに表玄関までたどり着くと、声を振り絞った。
「城代家老、辻村左馬介様へ、江戸表より急使にござる!」
 正太夫は、城代家老の役部屋に通されると、遅くまで残って執務にあたっていた辻村に一通の書状を差し出した。
「江戸表より急ぎの報せにございます」
 それを受け取り文面に目を走らせた辻村はことばを失い、うつむいた。恐れていたこととはいえ、やはり現実のものとなってみると、
家臣には耐え難い苦渋だった。
 書面には、藩主・松平斉韶が隠居し、養嗣子である斉宣が家督を継ぎ藩主に就く運びとなったとあった。斉宣は十一代将軍徳川家斉の子で、
二歳のとき松平家に養嗣子に入って今年で十五歳になる。
「殿はまだ三十七にあらせられるぞ」
 辻村は愁嘆に顔をゆがめ、小さく吐き出した。
 家斉は、みずからの子を松平家の藩主に据えるため、斉韶がまだ三十七歳という若さにもかかわらず、無理矢理引退に追い込んだのだ。
 徳川家斉は将軍の座を家慶に譲ってもなお、大御所として西ノ丸で権勢をふるっていた。
「城代」
 正太夫が声を押し殺すように辻村を見た。
「どうした」
「公の書面にしたためることははばかられるため、有賀様が辻村様に口頭でお伝えせよと」
「なんじゃ」
「……至誠院様が……」
 至誠院は藩主斉韶の正室である。
「いかがいたした。早く申せ」
 辻村が不吉な予感にとらわれたように先を急かした。
「斉宣様が藩主に直ると決まったその日、高輪の御屋敷にて喉を突かれ、ご自害なされました。壮絶な最期でございました」
 辻村は、ふたたび絶句し、急使の二人を見た。
 斉韶には直憲という嫡子がおり、至誠院はその生母である。家斉は斉韶だけでなく直憲までも退けて我が子である斉宣を藩主としたのだ。
 御方さまのご胸中いかばかりだったろうかと、家中の誰もが涙した。
「さぞかし、ご無念であられたろう……」
 辻村は唇を震わせた。
 正太夫と伝乃介も畳に頭をすりつけ、泣いていた。
 天保十一年三月朔日、春とはいえ、肌を刺すような寒い日の夜のことだった。



      一

「殿様を除くというんだ」
「除くとは、どういうことだ」
 剣道場の稽古場を出て支度部屋で着替えていると、ひそひそと話し声が聞こえてきた。
「斉宣様を亡き者にするということだろう」
「暗殺か?」
「しっ、声が大きい」
 武者窓から覗くと、目の前にある水場を備えた井戸のそばで、汗を洗い流しながら若い門弟たちが話をしていた。高山敏治郎、坂上万太と、
もう一人は顔は知っているが、名は覚えていない。
「ほんとうにやるわけではないだろう」
「それはわからんぞ。もう我慢ならんと息巻いていた」
「それは穏やかではないな」
 と声をかけると、窓越しに突然話に割り込んできた有賀喜久左衛門に気づいた少年たちは、その場に凍りついた。
 「今行く」と声をかけて洗い場まで出ると、
「殿のお命を頂戴するとはいかにも物騒な話だの。だれがそのような戯言を申しておるのだ」
 と訊いた。
「いえ、あの……」
 少年たちは一様に口ごもってうつむく。
 安気な声音で話しかけたつもりだが、かつて明石藩の江戸家老でもあった喜久左衛門に、孫ほどの齢でしかない門弟たちは、震え上がってしまったようだった。
「なにも、おまえたちをどうこうしようというのではない。申せ」
 高山敏治郎がおずおずと口を開いた。
「鉄心会という集まりです」
「はじめて聞くな。何だそれは」
「藩校の西沢組の門下でつくっている勉強会です。もともとは孔子を学ぼうという集まりだったのですが、近頃はそんな話ばかりだとか」
「鉄心会の者たちが殿を襲おうというのか」
「そのようです」
「おまえはそれを誰から聞いた」
「……藤井さんです」
「藤井? 藤井悦弥か」
「はい」
 悦弥もこの道場の門弟で、いま話している敏治郎の三、四歳年上である。たしか、徒士頭藤井なにがしの次男だったかと思う。
喜久左衛門も何度か竹刀を合わせたことがあるが、鋭い動きと太刀筋に圧倒された。あとで聞いたところによると、目録をもらうところまで来ているという。
「藤井も鉄心会なのだな?」
「というより、その集まりの会頭です。おまえも参加しろとしつこく誘われて……」
「こうなると、行かぬほうが無難だな」
「……はい」
「西沢組の者といったが、西沢先生はそのことをご存じなのか」
「いいえ。最近は先生とは関わりなく、藤井さんの家に集まってやっているようです」
「藤井は?」
 まだ竹刀を打ち合う音が聞こえる道場のほうを見て喜久左衛門が聞いた。
「さきほど帰られました」
 と、となりにいる坂上万太が答えた。
「そうか。おまえたちももう帰って良いぞ」
「有賀様」敏治郎が、戻ろうとする喜久左衛門を呼び止めた。「どうなさるおつもりですか?」
「このまま捨て置くわけにもいくまい。藤井と会って話してみるつもりだが、安心せい。おまえたちの名は出さぬ」
 少年たちはほっとしたように表情をゆるめて辞儀をすると、そそくさと帰っていった。
 喜久左衛門は着替えて道場から出ると、空を仰ぎ、大きなため息をついた。これからのことを考えると気が重かった。