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消えていくゾウの群れを見送りました。

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使節団(岩倉、大久保など)と留守政府(西郷、板垣など)は「留守政府は、やむをえざる事件以外は改革を一切差し控えるべし」という約束を交わしたが、西郷は学制改革や徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革など、約束を無視して新たな制度を次々と実行に移している。このルール無視の強引な手法で、最終的に西郷の朝鮮派遣は中止に追い込まれた。これに対し、大久保は国内行政の大半を担う内務省を創設し、初代内務卿として政権のトップに君臨した。富国強兵をスローガンに掲げ、殖産興業政策を実施して国力増強を図った。一方で、明治7年(1874)には台湾出兵を行い、翌年には朝鮮半島に軍艦を派遣して武力衝突を起こしている(江華島事件)。朝鮮の領海内で勝手に測量を行い、朝鮮側が砲撃したのを機に衝突し、最終的には日朝修好条規の締結に至ったわけだが、この大久保の対外政策にはどう見ても矛盾がある。西郷の朝鮮派遣の際には「対外戦争は避けるべき」と主張したが、舌の根が乾かぬうちに台湾や朝鮮に派兵している。現に木戸孝允は、「征韓論を否定しておきながら、台湾に出兵するのは矛盾している」と抗議し、政府を一時下野している(後に復帰)。→西郷は、朝鮮と仲良くする為に、使節団を検討して、大久保は、征伐朝鮮する為に、使節団を破棄しつつ、富国強兵したんじゃないかと思える。つまり、教科書は間違っている。リーダーの西郷が出身にとらわれずに有能な人材を抜擢したので、倒幕運動ではギリギリまで日和見を決め込んでいた土佐や肥前の出身者も政府首脳として活躍できたのである。特に江藤は山県有朋や井上馨などの長州出身者の金銭スキャンダルを糾弾して失脚させ、さらに、司法改革を実施するなどして政府内で頭角を現していた。
しかも江藤は政府を動かすたぐいまれなる才覚を持ち合わせていたので、将来自分の政敵として対峙する可能性がある。西郷の朝鮮派遣が決まれば、遣韓賛成派の江藤の政府における重要性はさらに高まるので、大久保は岩倉を利用して西郷遣韓阻止に動いたのではないだろうか。黎明期の明治政府ではこうした政争が日常茶飯事的に行われていた。そのため、大久保が江藤を追い落とすために行動したとしても不思議ではないのだ。明治7年(1874)2月、政府を追われた江藤は故郷の佐賀で不平士族に担がれ、反乱を起こした(佐賀の乱)。このとき、大久保は自ら兵を率いて鎮圧にあたっている。最終的には江藤が斬首刑に処せられてさらし首にされたのだが、この処分からも、大久保の江藤に対する警戒心が並々ならぬものだったことをうかがわせている。位階と陸軍大将の地位はそのまま据え置かれている。これは、ほとぼりが冷めたら彼を政府に呼び戻すという、大久保の西郷に対する配慮と意図があったのではないだろうか。一方、西郷や江藤が去ったことで大久保は政府の実権を握り、初代内務卿(現在の内閣総理大臣に相当する地位)に就いて自らが目指す国づくりの実行に動いた。肥前~佐賀長崎。江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、幕末から明治期の日本の武士(佐賀藩士)、政治家。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。平安京(京都)は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能を次第に失った。とくに室町時代から戦国時代にかけての時期は、応仁の乱にて市街地の過半を焼失し、衰退した。その後、平安京の市街地は、上京と下京に分かれて小規模なものとなっていた。これが再度一体の市街として復興に向かうのは安土桃山時代であり、織田信長の上洛後のことである。豊臣秀吉は大内裏の跡地である内野に政庁である聚楽第を設けたが、関白位を甥の秀次に譲ると伏見に伏見城を建設して隠居した。間もなく秀次が失脚して聚楽第が破却されると、政治の中心は京都から離れて完全に伏見に移ることとなった。日本の統治を巡って鎌倉幕府と朝廷が武力衝突となった承久の乱(1221年)。この戦に負けて以降、朝廷は日本の統治権を武士に奪われてしまった。文治元年(1185年)、頼朝は後白河法皇から諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可された。これを「文治の勅許」という。守護は国ごとの、今で言う検察長官である。地頭は荘園や公領ごとの警察官、裁判官、及び税金徴収役に相当する。頼朝はその頂点に立つ総追捕使(そうついぶし)・総地頭として君臨し、一気に全国の軍事・警察・行政権を掌握した。近年では、この1185年を鎌倉時代の始まりであると、一般視している。幕府とはあくまで朝廷の指示によって出来た政権であり、朝廷から独立した機関でない。さらに、有力公家や寺社は荘園の支配権を依然保っていた事から、幕府の支配はまだまだ不完全なものだった。この公(朝廷)と武(幕府)による二元的な支配体制が鎌倉前期の特徴である。一方、朝廷では後鳥羽が本格的に院政を開始した。多芸多才で弓をとっても一流だった後鳥羽の勢いは凄まじく、丹後局・通親ら旧勢力を失墜させて専制色を強めていく。