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夜の街、ウサギと少年

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「……そうね。頑張ってね」
 少女は無理にはにかみながらも、ちいさく顔を下げて、そう言った。少し変な雰囲気が気になった少年だが、明るい声で返事を返して店を出ていった。
「うーん……私じゃウサギには敵わないのかなぁ」
 少女は一人、誰に言うでもなく呟いた。

 その日の夜。ウサギは今日も、子供たちに夢のかけらを撒きながら屋根をぴょんぴょん飛び跳ねていた。幸せな夢を見れば子供たちは素敵な笑顔でいられるようになる。子供たちの笑顔を思い浮かべながら、ウサギは街を回り続けた。
 夢のかけらを撒きながら、ウサギは街の地面の道路をちらちら確認していた。いつも追い掛けてくるはずの少年を、今日はまだ見掛けていない。
 どうしたのだろうかと、ウサギは少し気になっていた。いつもは声が枯れるくらいに叫んで、執拗に追い掛けてくるのに。今日は調子が悪いのか、それとももう、私のことは飽きてしまったのか。ウサギは、ちょっとだけ不安になった。
「はっはっは、待っていたぞ」
 突然、静かな夜の街で声が聞こえた。あの、少年の声だ。しかし地面の道路には何処にも少年の姿はない。声も下から聞こえたものではなかった。ウサギは声の聞こえた方へ振り返ると、隣の屋根の上に少年がいた。
 ほんの一瞬だけ、喜んで笑顔を抑えられなくなったウサギは、一旦視線をふいと横に逸らした。喜んでしまった笑顔を少年に見られただろうか。見られて困ることもないがウサギは心配していた。しかし少年の目では、月の光ですこしは明るいとはいえこの暗闇ではウサギの表情なんて見えていなかったの。
「今日こそは絶対に捕まえてやるからな。待ってくれないのなら、俺が本気を出して追い掛けるまでさ」
 今までのものは本気ではなかったのか、ウサギはちょこんと首を傾げた。今回はいつもより、少年は気合いを入れていうことは分かった。
 少年の両手には、鳥のような、しかしどう見ても簡素な作りものに見える下手な翼を付けていた。本格的に作ったからか、少年を鳥と比べれば、翼の大きさの比は大体合っていた。しかしそれはお世辞にも、そんなものでは飛べそうではない代物だ。
「苦節三日……これさえあれば、お前がどんなに屋根を飛び跳ねても、俺は屋根を飛び移りながら追い掛けられるぞ」
 しかし少年の目は、本気であった。本気の目をしているので、もしかしてあんな翼でも飛べるんじゃないかと、ウサギはすこしだけそんなことを思ってしまった。
「と、とりあえず待ってろ。今すぐそっちに飛んでみせるからな」
 そう言うと少年は翼を構えて、走り出した。屋根の上から十分な加速を付けて走る。少年のいる屋根からウサギのいる屋根までの距離は、見た目はそれほどないのだが、普通のジャンプでは確実に届かないくらいの距離だ。しかしあの翼があれば、どうあろうか。少しでも捕まる可能性がある以上、ウサギは少年の待つという願いに答える気もなく、そこから次の屋根に飛び跳ねる準備を取った。
 全力で走り出し、今まさに、飛び立つ、その一歩手前だった。足場の悪い屋根に慣れていなかったであろう少年は足を取られて、飛び立つ少し手前で一気に失速した。
「あわっと、うわわ」
 失速、それでも走り出した足は止まらず、そのまま、飛び立てずに屋根から落ちそうになった。少年はすぐさま姿勢を変えてなんとか踏ん張ろうと翼を動かして戻ろうとするが、その力も空しく、少年は屋根から落ちた。
「わああ」
 気の抜けた声で悲鳴を上げる少年。地面は固い石造りの地面……普通ならそうであったのだろうが、少年の落ちる先は、偶然にもごみの山だった。がしゃんと、少年はごみの山に落ちた。
 その一部始終を見たウサギは、心配になって少年の落ちた先を覗いた。がさがさと動くごみの山から、少年の頭や手足が現れたのを見て、ウサギはほっと息を吐いた。
「いたた、こんなはずじゃなかったのに……」
 両手に付けていた翼も、ボロボロに折れて壊れてしまっていた。あそこで足を取られずジャンプに成功していれば。そう考えながら顔をしかめる少年は、大した怪我もしていないようだった。
 少年は見上げる。屋根の上には、ウサギが自分を見下ろしているのに気が付いた。
「今日は、調子が悪かったんだよ……」
 ウサギはくすりと笑った。少年も、ウサギが笑ったことに気が付いた。無性に腹が立って、今すぐにでも捕まえてやりたかった。でも今は、ウサギは自分の手の届きそうな所にはいない。いつもの、自分よりも高い屋根の上だ。もう追い掛ける力もなかった。ウサギはくすりと笑って、屋根をぴょんぴょん飛び跳ねて少年の視界から消えてしまった。
 少年は、黒いドレスと帽子の間から見えたウサギの笑顔を思い出して、そのままごみの山をソファー代わりにして、夜空の月を見ていた。

「がっはっは、そりゃお前の考えがおかしいじゃろ」
 夕方の街のある一角、酒場の中ではおじさんの声がお構いなしに響いていた。ばんばん、と少年の背中を叩く力は意外にも強く、叩かれる度に少年は倒れそうになった。
「なんだよ、ちゃんとジャンプすれば絶対飛べた筈なんだよ」
 少年の手には、もう半分は減ったお酒の入ったジョッキが持たれていた。それまでも大分飲んでいるらしく、少年の顔はすこし赤い。
「そんなチャチな翼で飛べりゃ、誰も苦労しないじゃろ」
「うー……それでも、ウサギを捕まえたかったんだ」
「男が女の尻を追い掛けるなんて見っともないの」
「うるさい! それに、そういう意味じゃないし……」
「子供は黙って、夜は大人しく寝ていれば良いんじゃわい」
 おじさんの声は大きくて、傍にいる少年には耳鳴りがするほどだった。少年は耳を塞いで、苦しそうに顔をしかめた。
「俺が眠れなくなったの、知ってるくせに」
 少年は、ウサギを追い掛けてから眠ることを忘れてしまった。眠る夜の時間にウサギを追い掛けていたからなのか、ウサギを追い掛けている原因に何かがあるのか、分からないが、少年は眠ることを忘れてしまった。
「それに呑気に寝ていたら、あのウサギはいつまで経っても捕まえられないよ」
「おいボウズ。いつまでも追い掛けて捕まえられないのに、それでも諦めないのか?」
「……諦めたらダメだよ。あいつは絶対に捕まえてやるって、そう決めたんだ」
「よっしゃボウズ! その心意気、気に入ったぜ。絶対に諦めたりすんなよ?」
 ぼん、と少年の頭を叩く。その力もまた強く、少年は逆らうことなく頭を机に伏せた。
「いきなりなんだよ」
「お前みたいな眠らねえ可愛くない子供でもな、絶対にやっちゃいけないことがあるんだ。一度心に決めた女は、絶対に諦めるな。そいつもお前のことを、少なからず想っているかもしれんぞ」
「だから、そういう意味じゃないって……」
 がっはっは、とおじさんはここ一番に豪快に笑って、少年の背中をぼんぼん叩いた。
「まああれだな、ウサギを捕まえたら絶対に離すなよ。そこまで好きなら、一生を付けてでも大事にせにゃあかん。それが男ってもんじゃ」
「うーん、なんか誤解されているような気が……」
「まあまあ、追い掛けるってのはそういうことだろう? お前の恋が実ることを祈って、乾杯じゃあ」
作品名:夜の街、ウサギと少年 作家名:白川莉子