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短編集80(過去作品)

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 このセリフを昨日も聞いたような気がする。しかし、いつもシチュエーションが違うのだ。昨日であるということはない。一昨日なのかさらに前なのか、昨日のこともハッキリ思い出せないのに、それぞれのシチュエーションが頭の中に染み付いているのだろう。
 園部には癖がある。人に指摘されるとあまり気持ちのいいものではない。なぜなら子供の頃に口が酸っぱくなるほど親に言われてウンザリしているからだ。癖というよりも性格的に許せないことは、絶対にしないという考えに基づいているのだ。
「お前は何か考え事をしていると、すぐに指を折り曲げて、じっとそれを見つめている時がある。そんな悪い癖はすぐに治さないと大人になって困るぞ」
 耳にタコができそうだ。
 言われてみれば無意識なのだが、指で何かを象っていて、それを見つめているようだ。その時々で象るものが違うので、その時の心境が影響しているのかと思ったが、どうもそうではないようだ。
 小さい頃に、ボランティアのお兄さんたちに影絵を教えてもらったことがあった。キツネだったり、イヌだったりと、主に動物が多かった。紙を使ってのものもあったが、ほとんどが指だけで作るもので、
「どこでだって光さえあればできるんだよ。これって神秘的で楽しいよね」
 そう言われて、皆大きな声で返事をしていた。子供心に影が気持ち悪いものだと思っていたのは事実だが、実際に気持ち悪いものだと感じたのは。影絵を見て神秘的だと思ったよりもはるかに後だった。夜の道を歩いていて、思ったより大きな影が足元から何本も伸びているのを見ると、それだけで気持ち悪くなってしまう。
 月明かりが十分な明るさを保っている時はいいが、街灯に明かりに頼らなければならない時は、足元からの影がいくつにも見えてくる。自分の身体の何倍もある影が薄っすらと壁に映し出されるのだ。気持ち悪さ以外の何ものでもない。
 小学生の頃にミステリーが映画になった。最初に原作を読んでから映画を見たのだが、ストーリー的には原作に勝るものはない。しかし、実際の細かい描写など、映像でなければ表現できない。そんな中に土蔵があるような大きな日本家屋の旧家が出ている。
 ほとんどがそこを中心に物語が繰り広げられるのだが、日本家屋の旧家という雰囲気だけで、おどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
 ストーリー的には人間関係が主に中心で、複雑な家族環境、血のつながりが次々に事件を引き起こしていった。しかもその土地に昔から伝わる恐ろしい話などがあいまって、ストーリーにホラー性をちりばめている。
 原作者はすでに他界しているのだが、戦後の動乱の時期をミステリー作家の第一人者として引っ張ってきただけあって、その作品数や指示数も半端ではない。少しマニアックなところもあるが、一つのジャンルを確立したという意味では彼の第一人者としての地位は永遠ではないだろうか。
 パイオニアという言葉があるが、園部はその言葉を犯すことのできないものの一つだと思っている。
――何事も始めた人が偉いんだ――
 極論ではあるが、いつもそう感じている。自分が何かのパイオニアになれないものかと日々探しているのだが、探しているとなかなか見つかるものではない。努力は必要だが、必要以上に肩を張っていても疲れるだけである。
 ミステリーを読み始めたのも、何か自分にあったものを探そうという気持ちがあったからで、実際に自分でもミステリーを書いてみようと思ったほどだ。
 原稿用紙を買ってきて、いざ机に向かう。気分は作家になったつもりだ。ワープロやパソコンの普及されていなかった頃なので、いかにも作家スタイルである自分を思い浮かべたものだ。
 しかし、思い浮かべれば浮かべるほど、殻に閉じこもったようになる。本当は自分の世界を作り上げればいいのだが、殻に閉じこもるのとではニュアンスが違う。殻に閉じこもると、本当の自分が見えてこないのだ。
 小説を書くというのが、
――本当の自分を探すことだ――
 と気付いたのは、本当に最近になってからのことだ。それまでは闇雲に考えていても纏まるはずもなく、原稿用紙を前に汗ばかり掻いていた。
 少しでも書ければ先が続いたかも知れない。きっかけが必要だったのだと気付いていたのだが、筆が進まない以上、どうしようもなかった。きっかけは偶然訪れるものだという人もいるが、園部には信じられなかった。
 自分で信じられないことは、いくら正しいことであっても承服できない性格である園部は、書いていても、
――自分に小説家のような素晴らしい作品なんて書けっこない――
 と頭の奥でくすぶっていては、書けるものも書けるはずがなかった。
――自分には才能がないのかも――
 という思いが頭をかすめるが、それも書けっこないという考え方とは別の次元のものなのだ。だからこそ、書けないことを悩んでみたり、原稿用紙を目の前にして脂汗を流している時間ばかりなのだ。
 場所が悪いのかと思って図書館に場所を変えたりした。どうしても家にいると気が散ってテレビをつけたり、音楽をかけたりして集中できなくなるからだ。図書館ではそんなことはないだろうと思って出かけてみたが、結果はほとんど変わらない。
 少ししたらすぐに気が散って席を立って本棚をうろついてみたりと、まわりを気にするようになってしまう。
――では何が?
 そう考えると、今度は用紙が悪いのではないかと考える。
 原稿用紙からノートへと変えた。元々縦書きが苦手だったこともあって、横書きのノートではスムーズである。少しずつ書けるようになっていった。
 すると、いろいろ見えなかったものが見えてくるようになるもので、場所も喫茶店へと変えた。
 するとどうだろう。まわりの雰囲気、例えば外を行き交う人や車の流れまでが、執筆における被写体となるのだ。
 コーヒーを飲みながら、BGMに掛かっているクラシックの音楽に身を委ねていると、とても高貴な気分になれる。そんなひと時を待ち望んでいたのかも知れない。それが執筆という趣味とマッチして、自分になくてはならない時間となるのだ。まったく気付かなかった自分を発見できる空間と時間、この二つを堪能しきっている。
 そんな園部も今では売れっ子作家、何度かコンテストに応募しているうちに、売れるようになった。諦めかけていた時だけに売れた時の気持ちは最高潮だった。今でもその気持ちに変わりはないが、好きなものを書いているというだけで、感覚的には麻痺しているところもある。
 感性がのる時には結構意識することなく書き続けることができる。しかし、一旦自分に疑問を抱いてしまっては、その深い溝から抜け出すまでに結構時間が掛かったりする。そのためか、自分の世界に入ることを一番大切だと思うようになった。自分の世界を作ることが執筆だけに限らず、自分の人生そのものなのである。
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次