八九三の女
[近藤さん]
微かに疼く首筋を指先で撫で、その指で唇を撫でる
触れた社長の唇の熱が残っているのか、身体が火照っている
ブラインドカーテン越しに朝の陽射しが射す
起きなくては
起きて、叔母の寝るカウチソファに戻らなくては
自分を抱き締めていた社長の腕も今や巻き付いているだけだ
それでも起こさないように、その腕からすり抜ける
「ん」
眉間に皺を寄せ、唸る社長の空いた腕に素早く枕を噛ます
満足げに枕を抱き抱え寝返る姿に少女は安堵する
だが、起きてしまった所で
「秘密の添い寝」ではなくなってしまったのだから
なにも焦る必要はないのだ、と思い直す
そうして寝室を後にする少女は目にした光景に言葉を失う
あろう事か、既に叔母は起きていて身支度をしている
寝室の引き戸の前で立ち尽くす
少女と目が合うと叔母は舌を出して、笑う
「同伴、忘れてた~」と、言うなり急ぎ足で居間を出て行く
少女は状況を整理出来ないまま
まごつきながらも叔母の、その背中を追い掛ける
言い訳は無理だ
でも、どう説明すればいいのか分からない
「じゃあ、またね~」
テディベアを抱えて
玄関扉の取っ手に手を掛ける叔母はなにかを思い出したのか
一度、テディベアを置いて手提げ鞄の中を漁る
そうして財布を手にすると
小銭入れのポケットから抜き取った、あるモノを少女に差し出す
上の空で「あるモノ」を受け取る少女は
なんとか叔母に話しをしたかったが、なんとも言葉が出ない
仕方なく受け取った「あるモノ」をまじまじと見つめる
だが、その「あるモノ」の正体が分からず
反応に困っている少女に叔母がにやにやした顔で教える
「コンドーさん」
「使い方は社長が知ってるから、ね~」
再びテディベアを抱え玄関扉を開けて出て行く
叔母の、その意味有りげな態度に不安を覚えた少女は
社長に「あるモノ」を見せる事も相談する事もなかった