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短編集75(過去作品)

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幻の母子



                 幻の母子



 時々、躁鬱症ではないかと思うのは、自分というのが分からなくなるからである。普段から分かっていると思っているからこそ感じる分からない時の憤り、そんな時が誰にでもあるのだと思っていた。
 稲葉敏正はいつもそのことで悩んでいた。学生時代からずっと考えていたが結論が出ないまま飛び出した実社会、そこは稲葉が考えていたよりも厳しい世界で、理不尽に思うことも実に多い。
 そんな中、同僚たちからあまりいいイメージを持たれていないことに気付いた稲葉は、自分の殻の中に閉じこもり気味になっていた。会社での毎日に苦痛を感じ、自分に自信を持てない時期が増えていったのだ。
 元々、稲葉は自信過剰な男である。考え方もしっかりしているつもりだったし、大学時代に費やした友達との会話で、かなりな部分自分を理解しているつもりでいた。実際に友達から、
「お前の考え方は斬新だが、共感できる部分がかなりある」
 と言われていたし、皆稲葉と話すのが楽しみなようだった。
 そこに間違いはない。確かに話をしていて盛り上がり、夜を徹して話したことなど、何度もある。
――時間を感じさせない会話――
 それが稲葉の信条だった。
 どちらかというと不器用な稲葉だった。正攻法で行ってあまり期待しているような結果が得られないこともしばしばあり、それでも自分のやり方を貫くようなそんな男だった。要するに要領が悪いのかも知れない。そのことを必要以上に気にしていたが、正攻法でのやり方こそが自分の考えだという強情なところがあるのも不利なところではないだろうか?
 だが、女性には結構モテた。スポーツマンというわけでもなければ、カッコいいわけでもない。どちらかというとうだつの上がらない冴えないタイプの男である。
「どうしてお前はもてるんだ?」
 まわりから不思議がられていたが、女性曰く、
「あなたは優しいのよ。内面からその優しさを感じるのね」
「母性本能をくすぐるのかな?」
 苦笑いしながら言うと、
「きっとそうね」
 という返事が返ってくる。
 あまりありがたくない返事だ。母性本能をくすぐるということは、相手から見下ろされているような気がするからだ。屈辱的な感じもする。だが、それでもモテるのならいいという気もしていた。
 ある意味優柔不断である。しっかりした信念を持っているつもりでいる反面、いい加減なところもある。それでもメリハリがついていればいいのであって、学生時代の稲葉は、自分にそのメリハリがついていると思っていた。
 学生時代はそれでもよかった。自分の考えの正当性を友達と語り合うことで認識させ、話の中に溶け込ませればよかったからだ。だが、社会に出るとまわりは皆先輩なのだ。そんな中で自分の正当性を主張する場所はどこにもない。しかも仕事に対して感じる理不尽さは自分の中でいかんともし難く、それが鬱状態への引き金になっていったようだ。
 稲葉は合理性を重んじるタイプの人間だった。自分本位のところはあるが、無駄なことは好きではない。だが、社会に出ると往々にして無駄と分かっていることでも上司の命令とあらば聞かなければならないところがある。自分が上司になって変えればいいのであってそれまでの辛抱だと思えればいいのだが、なかなか割り切れない自分に苛立ちを覚える稲葉だった。
 悪しき伝統のような会社なのだが、それは現場と事務所との間の溝が大きいように思う。元々人を見下ろすことに快感を覚えている稲葉は、現場の人間を完全に見下ろして見ていた。決していい傾向でないことは自分でも分かっているが、どうしても現場の人間の言い分が幼稚に聞こえて仕方がないのだ。
 学生時代にアルバイトで肉体労働もかなり経験してきた。その時は現場の人たちと話すのが楽しかったが、いざ自分たちが指示する側に立つと、これほど厄介なものだとは思ってもみなかった。
 彼らには彼らのプライドがある。稲葉にそのプライドを立てて上げられるだけの余裕がない。入社したての頃は理不尽だと思いながらじっと上司のやり方を見ていたが、イライラさせられることばかりである。
――どうしてもっと合理的な考え方ができないんだろう――
 と思いながらも、
「現場の人たちとうまくやっていくには、相手を立てることも大切なんだ」
 と言われれば、
「そうですね」
 としか答えようがない。頭の中では分かっているつもりだ。第一線の人たちが動かなければ仕事にならないことを。
 しかし、そのために煽りを食らうのは事務や営業の我々なのだ。お得意先との商談から苦情受付、胃が痛くならない方がどうかしている。
 そんな中で、自分の仕事を抱えていながら、
――もう少し他の人がうまくやってくれれば自分の仕事にだいぶ余裕ができるのに――
 ということもある。
 会社の仕事というのは流れ作業であり、誰かの仕事を受け継いで誰かに仕事を渡すことが多い。さらに自分でコツコツまとめる仕事も持っているため、結構忙しいのだ。
 自分でコツコツする仕事のほとんどは前向きなものが多いのだが、流れ作業の場合は得てして後ろ向きだったり、苦情処理関係だったりすることが多いため、精神的にはあまり好きではない。
 仕事に対して好き嫌いなど贅沢だとは思うが、稲葉も人間、感情が表れて当然ではないだろうか。
 流れ作業の仕事は、相手が終わるまで待ってなければいけないので、こちらの都合ばかり言ってはいられない。それだけにストレスは溜まる一方で、自然と終業時間も遅くなり、サービス残業を余儀なくされる。
 それだけにまわりがうまくまわってくれないことへの憤りも激しく、顔ではニコニコ接していても、心の底では、
「お前がとろいから仕事にならないんだ」
 と叫んでいる自分に気付く。だが、心で叫んだところでどうにもなるものでもない。理不尽という気持ちになるのはそんな時であった。会社全体からすれば合理的なのかも知れないが、自分にとって合理的でも何でもなく、無駄だらけ、そう感じてしまうことが、社会の厳しさを稲葉に教えてくれる。
 学生時代から、社会に出ることへのわだかまりがかなりあった。就職活動の時など、会社に入ってからの心得を先生や先輩などから聞かされていたが、
「会社に入ると先輩の言うことは、悪いことだと思ってもとりあえず聞いておきなさい」
 とよく言われていた。
――悪いと思うことでも聞けというのだろうか――
 と、それこそ理不尽な教えに、疑問を持っていたからである。そんな気持ちで入った会社、仕事の進め方も考えていたよりもずっとムダが多く、それを口に出せない自分が腹立たしい。確かに口に出して文句を言える立場ではない。何しろ入社一年目の新入社員なのだから無理もない。
 だが、それでも、入社前に感じていた言い知れない不安は消えていた。何事もそうなのだが、実際に見たり聞いたり体験したりしない限り、いくら自信があっても言い知れぬ不安が付きまとっていた。それは稲葉だけに限らないだろう。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次