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佐々木 白
佐々木 白
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若者とテレビと動画と。

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 近頃の若者は押しなべてテレビを見ない。私自身10代後半であり、実際私も昔に比べてテレビを見る機会は無くなったように思う。では、その抜け落ちた後釜に何が収まったか。それはインターネット上に存在するいくつかの動画サイトの動画だ。
 動画サイトの動画というものは、やはりテレビ局のように大きな後ろ盾が着かない物が多く、規模も小さければ技術的な面で劣ることも多い。ましてや、仮面を付けたり声だけであったり、はたまた、当人の作品だけの動画も多数存在する。そんなものが今なぜ、若者の心をつかむのだろうか。
 私が小さいころ、関西人ということもあり、好んでお笑い番組を見ていた。もちろんのこと、成長した今とは笑いの沸点やツボこそ違えど、当時の番組は現在の番組より面白かったように思う。なぜだろうか。
 私がテレビ番組に関して驚いたエピソードが一つある。それは、とある年の年末年始の特番にて、芸能人(仮にAとする)が顔や肌を黒塗りにして、黒人の俳優の恰好をさせられていた。周りの芸能人や、その映像が流れるスタジオもそれをみて面白がっており、私自身とても面白かったと記憶している。しかし、番組終了後、三日程経った時、始めはネットのニュースの記事にて、「芸能人Aが黒人に扮して笑いを取る姿が黒人差別だと批判殺到」という趣旨の記述を見た。最初は小さな波紋であったが、それは徐々に拡大し、その芸能人の相方が違う番組にて、その話をそこはかとなく振られた時に曖昧な返事をするまでに至っていた。そこに私は非常に驚いた。
 答えが曖昧だということは、芸能界ひいては現代社会でこの話題がいくらか問題視されていることを意味しているからだ。私はその番組にて、黒人差別の雰囲気は微塵も感じられなかった。共演者による差別発言があったわけではなく、ただ単に「黒人に扮した者を笑ったから」という理由で黒人差別とみなされていたからだ。
 確かに、黒人に扮した者を笑ったと書けば、黒人差別のように思う。が、しかし、例えば、その芸能人Aが黒人ではなく白人の有名俳優に扮していても、同じような笑いは取れていただろう。黒人の恰好をしたのは、ただ肌の色というビジュアル面で分かりやすく違いを示せるからという理由だろう。その番組は以降、翌年から若干過激な描写は控えめになっていったように思う。
 私はそこに、テレビの面白さの欠如があると思う。
 テレビというのは、CMにてその利益や製作費を賄っているのであり、それはつまり、視聴者の数こそが生命線であることを意味している。例えば、一日中同じ番組を繰り返すようなテレビ局で、CMを流したいと思うだろうか。テレビは視聴者に迎合すること強要される。ましてや、社会問題を引き起こしかねない話題などもっての他だ。そして、その影響が一番出やすいのが、バラエティー番組だと思う。ニュースは社会の情勢をありのまま放送すればいい(するべき)だし、ドラマやアニメはその製作者の意図しか反映されないからだ。
 しかし、バラエティーは違う。ニュースのように見る必要性があるわけでもなければ、ドラマやアニメのように、継続した支持層もそう居ない。だからこそ、プロデューサーの手腕と視聴者のニーズの均衡が試されるのである。
 ここで、番組プロデューサーとドラマやアニメの作家の違いをはっきりさせておきたい。 作家というものは、主に外的要因に左右されず、自身が思い感じ、表現したいことを作品にする人々である。そして、そのファンないしは視聴者は、その物語に見え隠れする作者の思いに心打たれ、継続して追い続けるのである。それに対し、番組プロデューサーというものは、外的要因に大きく左右される。ネットやニュースで今視聴者が求めているエンターテインメントを察知し、その数々をつなぎあわせ一つの番組にする。視聴者は、特に特番などで顕著だが、どこか刹那的な面白さを求めて番組を視聴するのだ。
 例えば、番組プロデューサーが大のパソコン好きで、パソコンの要素しかない番組しか生み出さない人であったらどうだろうか。もし、あなたがテレビ会社社長であったなら(あなたがパソコン好きな場合を除いて)解任するのではないだろうか。ではなぜ解任しようと思うのだろうか。それはおそらく、「一つに特化した番組は、幅広い視聴率を逃す」と思うからだろう。
 ここにこそ、今の若者のテレビ離れの要因があると思う。
 動画サイトの動画を見てほしい。おそらく、一人の投稿者は同じようなコンテンツをずっと投稿し続けているだろう。昆虫が好きなら昆虫の観察・解説動画を、ゲームが好きならゲームのレビュー・実況動画を、釣りや料理が好きならその様子の動画を継続して配信しているだろう。そしてそれを見る視聴者は感覚的には、作家の視聴者に近いと私は思う。自分の好きなコンテンツしか流れてこないチャンネルがあるなら、誰だって見るだろう。おまけに、視聴者や世論に迎合しない分、専門性が高かったり、若干過激であったりするのだ。テレビのバラエティー番組が勝てる要素の方が見当たらない。
 確かに、テレビという形態をとる分、専門性の高い番組や放送コードに抵触するような番組を制作、ないしは放送することは一か八かのギャンブル性が高く、別段それで収入が跳ね上がる訳では無いので、ハイリスクローリターンな行為に他ならない。
 では、どうすればテレビはネットの動画に勝てるのだろうか。
 はっきり言って、それは無理だろう。
 人間という生き物は常に因果に関心を持ち、なにか謎があるとすぐに調べたくなるようにできている。そして、それは同時に疑問に対する答えを常に求めることに他ならない。だからこそ因果の答えの隠されたマジックや一見不可能に見せている道化師に浮ついた面白さを感じ、どこかおかしなことをその都度正していく漫才や漫談、落語を楽しむ。
 つまりは、オチやタネにこそ、物の面白さは存在しているといえる。テレビはそこを利用し、オチやタネを明かす間にCMを挟んで儲けを得ている。しかしながら、その焦燥感は決して面白いものではない。
 そこで、インターネットの動画はどうだろうか。サムネイルという一枚の画像、ないしは無声のショートムービーで動画のあらすじを知れて、面白いと思えばクリックして視聴できる。大概は、テレビのCMのような不快な焦燥感を味わうことなく、オチまでスムーズに視聴できる。自分の興味のあるコンテンツのみをピックアップできるし、興味がなければ表示すらできなくすることもできる。途中で再生を止めれば、トイレに行くこともできる(誰しも、先が気になってトイレを我慢しCMを見た思い出はあるだろう)。テレビと違い、動画には視聴者に選択権があるのだ。楽しさという指標で見れば、完全にテレビの上位互換といえるだろう。
 しかし、私は必ずしもテレビが動画よりも劣っていると言いたい訳ではない。
 視聴者に選択権のある動画では、自分の面白いと思うものしか見なくなり、見分の狭い人間になることは必定だろう。テレビでは多少面白くなくとも、流し見しているなかで、今までにない発見や、新しいコンテンツの開拓がされることもある。