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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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電脳マーメイド

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 地下鉄は幸いなことに混んでなくて、二人とも座ることが出来た。だが二駅先のシーロムで大勢の人が乗ってきて、途端に満員になってしまった。
 小さな男の子を連れた女性が前に立つと、彼は何も言わずに立ち上がり、自分の座っていた席を示した。女性は頭を下げて礼を言い、男の子を座らせる。タイ人は子どもを大切にする。それだけでなく高齢者や障害者に心やすく席を譲る文化が醸成されている。これもまた、彼がブログに書いている通りだった。
 代わる方も代わってもらう方も笑顔で気持ちよく、和やかな雰囲気が車内に満ちる。
 その親子はスクムヴィット駅で礼を言って降りて行った。
 地下鉄を降り、夕食を買ってマンションに戻る。途中でヤム・ウンセンとチキン・ローストを買って帰った。
 良く晴れていたせいで二人とも結構汗をかいてしまった。先にシャワーを浴び、それから夕食にしようということになった。
 今日一日で、どれだけ彼に近づけたのかな――
 二人で撮った写真のほかに、こっそり彼の写真も撮ってある。これで、会えない時にも少しは慰めになる。
 シャワーを浴びて髪を乾かすのも適当に、彼の部屋のドアを叩く。頭にタオルを巻いたままの私を見て、彼はそんなに急かなくてもと苦笑した。
 買ってきたものをテーブルの上に広げ、晩餐が始まる。今日は、彼はコンピュータの方を向いていない。私と向き合って食事を共にしてくれている。
 今日一日のデートは、二人の距離をそれだけ近づけたということか。もっとも、彼は観光案内したつもりであって、デートだなどと思ってもいないかも知れないけれど。
「今日はどうでしたか?」
 彼が訊く。
「最高でした。ありがとうございます」
「楽しんでもらえてよかった」
 彼が微笑む。「今日行ったところ、お寺もフアランポーンも、バンコクの旧市街になります。このマンションのある辺りは数十年前までは運河が巡らされた田園地帯だったんですよ」
「そうなんですね。道理で雰囲気が違うと思いました」
「旧市街の一部にヤワラートという中華街もあります。チャトゥチャクとはまた違った市場の雰囲気があります。今度行ってみましょう」
「はい、お願いします」
 幾らかのおかずを残して、彼はコンピュータに向かう。残ったおかずはビールの肴になる。
 私は注いでもらったビールを少しずつ飲む。
「気を遣ってくれているんですね」
 視線はディスプレイに向けたまま、彼が言う。「話しかけてくれてもいいんですよ」
「お邪魔じゃないんですか?」
「特には。むしろ、黙っているときの方が考え事をしています。書けているときは、話しかけて来られても気が散ることはありません」
「そうなんですね。意外です」
 彼は声もなく笑った。
 そしてまた、キーを叩く。
「健一朗さんは、どうしてお話を書こうと思ったんですか」
 私は知ってはいるけど、訊いてみた。
「最初は、詩を書いていたんですよ。でも、色んな小説を読んでいるうち、自分なりの世界が生まれてしまった。私が初めて書いたのは、実際に夢で見たお話です」
「最初から、作家を目指していたわけではないんですね」
「そうです。私は絵描きを目指していました。だから高校はデザイン科に進んだんです」
「もう、絵は描かないんですか?」
「描きたい気持ちはあります。でも鬱の影響で左右の視力が極端に違うようになり、さらに右目ではものを正確には捉えられなくなってしまいました。下絵でも塗りでも、筆先がずれてしまうのです」
「鬱って、心の病気でしょう?」
「心と体は一体です。切り離すことは出来ないのです」
「じゃあ、もう二度と絵は描かないんですか?」
「そうですね……」
 彼は一旦言葉を切る。その間も、彼の手はキーを叩いている。「いつか、気が向いたときに描けたらいいなとは思いますね」
「きっと描けますよ」
「そう言ってもらえると嬉しい半面、プレッシャーもあるな」
「絵でも小説でも、健一朗さんには独自の世界観があると、私は感じます」
「ありがとう。励みになります」
 彼がビールを注ごうと手を伸ばす。だが、既に空になっていた。
「私、買ってきます」
「いや、いいですよ」
「行かせてください。その間、少しでもお話の方、進めてください」
 私は彼の部屋を出た。
 その夜も寝たのは午前零時を過ぎてからだった。
 彼はお酒が入ると饒舌になる。無理につきあったわけでもなく、私も楽しい気分で過ごせた。
「健一朗さんは、まだ寝ないのですか?」
「今夜は調子がいいので、書ける所まで書きます。エレノアさんは先に寝んでください」
 私は黙って頷き、しばらく彼の横顔を見ていた。
 彼がディスプレイに集中している隙を狙って、私は彼のベッドに潜り込んだ。
 彼がそれに気づいたのは、コンピュータの電源を落としてからだった。
 こうなれば、彼は無理に追い返すこともしないと踏んでのことだった。
 おやすみなさい、健一朗さん――

※ヤム・ウンセン
 ウンセンはタイに多くある麵の一種でビーフンのような細麺。
 ヤムはトムヤムクンに代表されるように酸っぱくて辛い料理。
 ヤム・ウンセンとは汁無しの甘酸っぱくて辛い味付けの麺料理で具材は海鮮だったり豚肉だったりします。
作品名:電脳マーメイド 作家名:泉絵師 遙夏