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浜っ子人生ー母の香り

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大東亜戦争が終わり、私は疎開先の千葉の叔父の家から故郷横浜へ戻ってきた。横浜も一面の焼け跡ばかり、ドラム缶風呂がやっとと言う頃、黒こげの木材やトタン板の焼け焦げた匂いと、汗と垢にまみれた人達のすえた匂いとが町中に漂っていた。                 

 故郷へ戻った私は千葉県立一中から神奈川県立横浜一中(通称、神中)へ転校する事になった。神中は昔から県内の小学男子の憧れの的、天下の三羽ガラスと呼ばれる程の名門校だ。口頭試験で最終的に転校が決まるとのことで、それは九月早々の予定だった。

 その日、私は勤労動員で薄汚れた千葉一中の制服を来ていたが、母は見慣れたモンペ姿ではなくキチンとした着物を着ていた。母と二人、近くの市電の停留所で何時もの町の匂いに囲まれて電車を待っていたその時、向かい側の郵便局の前で銃を持っていた進駐軍の兵士が、突然私達に銃口を向け打つ真似をした。

 反射的に私を庇った母から、思いもしなかった香のかおりがふっと漂って来た。焼け跡の臭いばかりの中にいた私には、母の香りがまるで別世界から漂って来たかのように感じられた。
「お母さん、何でお香を」
と聞いた私に母は
「今日はお前のだいじな日だからね。私も気を引き締めなくっちゃ」
と優しく微笑んだ。

 その母は八十四歳の天命を全うして逝った。そして今年、私もとうとう母の年に追い付いた。今年の誕生日に私は母に
「僕もとうとうお母さんに追い付いたよ」と話しかけた。あの面接日の母の香りと優しい頬笑みとがまるで昨日の事のように蘇ってきた。
             
             (完)
作品名:浜っ子人生ー母の香り 作家名:栗田 清