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浜っ子人生ー「奇遇」

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「奇偶」と言う言葉がある。思いもよらない人と出逢うと言う意味だが、私は1,985年にロスアンジェルスで正にそれに出くわした。

 昭和16年12月に太平洋戦争が始まってから僅か5ヶ月後の昭和17年4月18日(土曜日)、日本本土へ忍び寄ったアメリカ空母から飛び立ったB-25爆撃機16機が茨城県沿岸から侵入、分散して東京、川崎、横須賀や名古屋、四日市、神戸までも急襲し、横浜では大きな被害はなかったものの、他の都市では機銃掃射で子供が殺されたり、進行中の電車が銃撃され死傷者が出たり、家屋の被害466戸となっている。

 アメリカによる最初の日本本土空襲である。        

 アメリカの指揮官の名前は、ジミー・ド-リットル中佐(最終的に彼は大将になった)、真珠湾の勝利以来、連戦連勝と信じ込まされていた当時の日本人にとって、この不意打ちのショックは大きかった。 

 戦争完遂に向けて国民の士気を高めようと、政府や軍部は
「鬼畜米兵」「打ちてしやまん」
等と言うスローガンを掲げ、耳にタコが出来るほど毎日毎日叩きこまれていた私達は、アメリカの飛行機が日本本土を襲うなんて夢にも思っていなかった。

 そしてこの空襲は政府や軍部が卑怯極まりない無差別攻撃で人道に反すると、益々国民を煽りたてる良い口実になった。だが一方であの時点で、これがのちに終戦まで続いたあの恐ろしい連日連夜の空襲のきっかけだったのだと思った日本国民は当時恐らく一人もいなかったのではと思う。

 あの日は素晴らしく晴れ上がった土曜日だった。私は国民学校(小学校)の三年生になったばかり、半ドン(土曜日)は子供たちが待ち焦がれた日、学校から帰った私は親友の和夫君と我が家の前庭で、昨日近所の木工所から貰って来た板切れで何を作ろうかと相談していた。まともな玩具等ない時代、遊びは自分達で作り出すのが当たり前だったあの頃、僕らは遊ぶ事に知恵を搾っていた。

 その時である。もの凄い爆音が響き渡りチョコレート色の大型機が、屋根や家の柿の木を掠めたと思うくらいの超低空で僕らの頭上をあっという間に飛び去って行った。胴体に鮮やかに描かれていたアメリカのマーク、今でも目に焼き付いている。

「何だい、あれは」
僕達二人はキツネにつままれたように暫くポカンと立ち尽くしていた。勿論二人ともアメリカの飛行機が来たなんて夢にも思えなかった。警戒警報や空襲警報のサイレンもそれまでには聞こえなかったと記憶している。外では近所の大人達がガヤガヤ大騒ぎをしていたが、何を言っていたのかは記憶に残っていない。

 ただ暫く経ってから、当時「赤とんぼ」と呼ばれていた日本軍の複葉練習機が2機、ピンクの翼も鮮やかに抜けるような青空を背景に空高く飛んで行ったのが、今でも私の記憶にはっきりと残っている。

 さて、時代は過ぎて1,985年、当時日本の水産会社の北米駐在員だった私は、取引先との商談でロスアンジェルスへ出掛けた。それまでも電話では何度もやり取りをした相手だったが、顔を合わせるのは今回が初めて、だが気さくなアメリカ人の事だ。喋っているとお互いが何年来の友達みたいになって来て、とうとう彼は、
「ホテルなんか泊るな、今夜は俺ん所へ来い」
と言い出し強引に私に「ウン」と言わせた。その晩、彼が俺のクラブへ行こうと誘ってくれた。

 私が住んでいるカナダのバンクーバーにも、戦前は日本人お断りだったと言う高級クラブが今もあって、私もそこへは何度か仕事で行った事もあった。しかしロスのダウンタウンにあるこのクラブは、その豪華さでは到底バンクーバーのクラブの比ではなかった。

 彼は友人を次々に紹介してくれた。たわいもない会話に興じていた時、彼が寄ってきて
「珍しい人を紹介しよう」
と私を引っ張って、誰かと話していた一人の老人の所へ連れて行った。

 その人はアメリカ人としては比較的小柄な老人であった。穏やかな笑顔と背筋をピンと伸ばした凛とした態度が印象的だった。
「ジミー・ド-リットルさんだ」

 彼の紹介を受けた私は一瞬、まさかと思った。
「この人があの生還を期せない東京初空襲のリーダーだったとは・・・」
骨ばった手と握手しながら、私は人生には本当に奇偶という事があるんだなとつくづく思ったし、43年前のあの日、私の頭上をあっという間に飛び去って行ったあのチョコレ―ト色の機体、アメリカのマークの記憶がはっきりと蘇ってきた。

 日露戦争以来の戦いが本土以外で行われた当時の日本人、本土での戦争の悲惨さを経験したことのなかった日本人には、アメリカ軍機が襲って来るなどとは想像もつかなかった出来事だった。あの日のド-リットル空襲はいわば世界を相手に戦争していた当時の日本人に、空襲を通して戦争は容赦なくお前達の茶の間へも入りこんでくるんだと言うことを、嫌と言うほど思い知らせたものだったと言えるだろう。

 だが、ご本人と確りと握手を交わしながら、不思議なことに私はあの空襲の敵将だったと言う反発が全然沸いてこなかった。それが今でも不思議でならない。当時既に終戦後40年が経ち記憶が薄れていたとか、今更相手を憎んだってとか、そう言う事が原因ではなかったように思う。

 あえて言えば戦争と言う異常な事態は、殺し合うと言う人間の獣性を正当化するもので、小学生だった私があの頃持っていた敵愾心はいわば当時の忠君愛国、「打ちてしやまん」等と言うような政治的洗脳の産物にすぎなかったもので、元来民族性の温厚な日本人にとっては云わば人為的、或いは表面的なものだったのではないか。

 戦後40年余りと言う時間の流れと、仕事上、常に白人たちと接し彼も人なら我も人と言う、いつの間にか身に付けた日常生活の知恵から生まれた感覚を持っていた私には、憎しみや反発よりもむしろ懐かしさの方が先走ったのではないかと思う。

 彼も人なら我も人、人種、歴史、言語や文化は異なっていても、お互いこの地球上で生きている人間同士じゃないかと言う、基本的な人間関係についての日本的な解釈が私の中に根付いていたからかも知れない。

 それが彼と会った時に、にこやかな握手が出来た理由だったのではなかろうかと今も思っている。彼は私に
「当時何処に居たのか、幾つだったのか」
等と穏やかな口調で懐かしそうに色々と質問をして来た。

 私が、
「今でもあの機体のアメリカのマークをはっきり憶えているよ」
と言ったら、彼は首をすくめて、
「まさか僕の顔まで見えてたんじゃないだろうね」
と素晴らしいジョークを飛ばし、
「奇偶!」
と聞いて周りに集まっていた人達を大笑いの渦に巻き込んだ。

 老人は昨日の事よりも、遠い昔のことをよく覚えていると言う。決死の覚悟であの奇襲をやり遂げた彼には、敵国の地上から一瞬その飛行機を見た一人の日本人少年、その少年が今自分と握手を交わしていると言う奇偶、その不可思議さを私と同様に分かち合っていたのだと思いたい。

 このハプニングから後、奇偶と言うものは必ず人生にあるものだと私は信じるようになったし、ド-リットルさんに逢えた思い出を今も大切にしている。
作品名:浜っ子人生ー「奇遇」 作家名:栗田 清