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浜っ子人生ー今も心に残る先生達

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大学時代ですらも既に半世紀以上の彼方となった今日この頃、まして小、中、高校時代となると最早遠い記憶の果ての筈なのだが、この時代に私を導いて下さった先生方の中には、今も私の心に貴重な言葉や懐かしい思い出と共に確りと残っている方々がいる。
 
 但し、大学の先生方には申し訳ないが思い出が殆どない。教授の方々との人的接触が極度に限定されていたのか、せいぜいゼミの記憶ぐらいしか残っていない。

 小学校時代、私は三人の先生方から薫陶を受け、中学時代にはたくさんの先生方から教えを受けた。私が中三の時に学制改革で旧制中学が新制高校になったが、私の学校では先生方の顔触れは中学時代と全く変わらなかった。
 
 先ず小学校時代、一年生を担当された近藤一太郎先生、頭はかなり薄くなっていたけれど、可愛らしいチョボ髭を生やして、おでこがピカピカ光っていた。昭和十四年と言えばシナ事変の解決が一向に見られず、国際連盟を脱退した日本は米英など欧米諸国から圧力をかけられていたころで、文部省は小学生にも軍国教育を段々厳しく教える方針を取っていた。

 だから現代の「友達先生」の水準から見たら近藤先生も厳しい先生に写るだろうが、忠君愛国の中で育てられて来た私たちの目から見れば、厳しさは当然のことだった。とはいうものの、私の記憶には近藤先生の怒った顔は全くない。いつもニコニコ先生で、「オイ、コラ」ではなく
「栗田、そんな悪戯をすると閻魔様に叱られるよ」
という調子だった。

 幼児期をようやく過ぎたばかりの私達一年生が、始めての学校生活で緊張していたのは紛れもない。ところが、近藤先生はそんな私達の緊張を巧みに解きほぐしながら、一生懸命勉強しなくてはと言う気持ちにしてしまう、不思議な能力を持った先生だった。
 
 今振り返って見ても、近藤先生は正に一年生のために生まれて来たような先生だった。近藤先生の巧みなリードが一年生の私を勉強好きにし、その後高校までの厳しい競争に耐える基礎を作ってくれたのだと思う。私は今も先生のあの笑顔をはっきり覚えている。
 
 二年生の時の先生は角田春吉先生、頭はゴマ白で痩せていてお年もかなりいっていたように見えた。静かで落ち着いた授業をする先生、その態度で私達の悪戯心を自然に抑え込んでしまうと言うユニークな先生だった。
 
 近藤先生のあの底抜けの明るさとは対照的な先生だった。国語、作文に重点を置かれていた先生で、或る日の作文の時間に何も枡のないザラ紙を配られた。「あれっ?」と言う顔をしている私達に角田先生は、
「君達が大人になって社会に出た時、白紙にきちんと書く必要が必ずある、その時に慌てないように今から訓練しておくんだよ」
と言われた。
 
 白紙に行間をきちんと揃えて書く作業は二年生の子供たちには大変なこと、でも慣れるに連れてそれが出来るようになった。先生が言われた通り、成人して社会に出たらそれが多いに役立ち、その時に何も慌てずに済んだのは角田先生のお陰だったと言える。「慌てずに、一歩下がって判断する」これが角田先生の教えの底流に通っていた「筋」であった。先生には三年生の終わりまで教えて頂いた。
 
 四年生からの先生は広瀬林先生、顔が四角張っていたし名前が広瀬林と3文字なので、韓国人じゃないのかなどと私達悪童が囁き合ったこともある。近藤先生や角田先生よりずっと若くて体も大きかった。

 頑健な男達が次々と兵隊に取られて行く時代、若い先生が僕らを教えてくれたのは奇跡に近いと言っても良いだろう。学校から余り遠くないところに住んでいた広瀬林先生は、私達をよく自宅へ連れて行ってくれた。
 
 もうそろそろ食糧が窮屈になりかかっていた時代、でも先生は奥さんがふかしてくれたサツマイモにかぶりつく私達を、何時も優しい笑顔で見つめていてくれた。学校の裏山など近所の山や丘をよく先生と歩いたがマムシを見つけると素早く捕まえて、
 「おい、今夜は蒲焼だぞ」
と僕達を笑わせた。

 私の学校、保土ヶ谷国民学校は神奈川県内では天下の三羽ガラスと言われ、県立一中の入学率が他の小学校を大きく引き離していた。だから広瀬先生も私達が五年生になると、進学希望の生徒達を纏めて放課後も夕方まで特訓してくれた。
 「希望を持って頑張れ」
これが先生の口癖だった。この特訓は六年生になっても続いたが、残念な事に一学期になると戦争が激しさを増す中で学童疎開がはじまり、縁故疎開や集団疎開へ行くためにクラスもバラバラになってしまった。
 「良いか、何処へ行っても、何があってもいいから、力一杯頑張るんだぞ」
と、最期のクラスで一人一人の顔を見ながら言った先生の四角い顔が、今も私の目に焼き付いている。
 
 疎開、終戦そして横浜へ戻ってきた私は、あの憧れの神奈川県立神奈川中学校、通称神中へ千葉一中からの転入を果たした。そして保土ヶ谷時代、五年生から広瀬先生の特訓を受けた友達と又一緒になれた。
 
 さて、神中の先生方で記憶に強く焼き付いている先生方は何人もおられる。神中は神奈川県で始めて設置された中学校、歴史も長く先輩、後輩の絆がとても強かった。バッジは五色でその年の卒業生の色を一年生が受け継ぐというシステムになっていた。
 
 神中で思い出の深い先生方のトップは漢文の渡辺先生。若い頃、先生は学校の化学実験で誤って硫酸を被ったとかで、頭と左目にその痕が残っていた。一見妖怪みたいで勿論頭には殆ど毛がなく、僕らは先輩から受け継いだ「オワン」と言うあだ名を大切にしていた。 物静かな先生で漢文と言う「厳かな」学科を、何時も懇切丁寧に僕ら悪戯ガキ供に教えて下さった。

 この先生から受けた漢文教育のお陰で、私は李白、杜甫などの漢詩の美しさを楽しみ、孔孟思想をつぶさに学ぶ事ができた。当時の私には、こんな素晴らしい詩を持ち、こんな発達した哲学を持っている中国人と、何で戦争をしたのだろうと屡々(しばしば)思ったものである。
 
 残念な事だが、カナダに来てから徹底した拝金主義に生きる現代中国人と接する機会が増えるにつれて、折角培ってきた漢詩や中国思想へのあこがれが薄れてしまった。しかし渡辺先生のあの淡々としたもの静かな授業の進め方、生徒一人一人への配慮が感じられる態度は今でも好きである。先生には一年から三年まで教えて頂いた。
 
 次は国文の前田先生、あだ名は「苦虫」、何時も苦虫をかみつぶしたような顔をしていたのでついたあだ名だが、時たま見せる、はにかんだような笑顔が素晴らしかった。後年、前田先生の思い出を書こうとウェブでいろいろ探していたら、先生が平塚高女から神中へ移って来られたのは、昭和19年で、平塚高女時代には動員された女学生たちを軍が無理に働かせようとすると、「女は男と違う」と軍に対して敢然と抵抗したという硬派の経歴を持っていたことが分かった。
 
 そして着任早々に「苦虫」と言う、(大変失礼だが)これ以外にはピッタリ来ないというあだ名を付けた先輩に脱帽した。先生には中二から教えて頂いた。先生は国文の教科書通りに古文から始まって明治以降の近代文学まで教えられた。