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大地は雨をうけとめる 第10章 種

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 優しい人。そう言われたのは二度目だ。最初に言ってくれたのはアニスだった。彼女は首を振った。
「優しくなんてないです。……怖いんです。私はアニサードが好きなのに、いえ、好きだったというべきかもしれません。だんだん、……顔を見るのも嫌になってきて。そのうち、憎むようになるかもしれません」
「憎んだとしても、そういう自分を許してやらんといかんよ」
 許してやらんといかんよ。
 その言葉に、熱い水が目からこぼれ、手に落ちる。
「あんたは何も悪くない」
 唇をかみ、声をたてずに泣く彼女を、カプルジャが優しい眼差しで見つめていた。

 
 アニスが狂ったままでも、以前と変わらず日々は過ぎていく。
『いっそ、死んでしまったほうがよかったかもねえ』
 下働きの女たちが、そう話しているのをルシャデールは耳にはさんだ。その時は腹を立てて、叱りつけてしまったが、アニスの顔を見るのも最近はやるせなく、溜息しか出ない。
 オリンジェは当初は三日おきくらいに訪れていたが、それが一週間に一回になり、十日に一回になり最近では姿を見せない。
 シャムが聞きこんできた話では、絹織物問屋の息子と縁談が進んでいるという。
両親や周りからも意見されたんでしょうね、と彼は言った。嫁入り前の娘が狂った男のところへ通うのは外聞が悪い。オリンジェもそれに従ったのだろう。
 思ったとおりではあったが、それに対して怒ったり軽蔑することはできなかった。


 十二月も終わりに近い日だった。ミナセ家から戻ると、階上から怒鳴り声が聞こえた。
「ああ、もう! 何をやってるんだ、いいかげんにしてくれ!」
 ルトイクスだ。
 珍しく、苛立っている。何があったのだろう。
 階段を駆け上がり、アニスの客室に入ろうとして、彼女に気づいたルトイクスが慌てて入口をふさいだ。
「だめです! 御寮様はお入りになってはいけません!」
「どうして? 何があったの?」
「だめです!」
 ルトイクスは無理矢理、彼女を、入口から引き離す。
「失礼いたしました。しかし、今はだめです。御寮様がご覧になってはいけません」
「だから、どうして?」
「……脱いでしまったのです。私が、食器を下げている間に、粗相をして、気持ち悪かったのでしょう。戻ってきたら、服をみな脱いでいました」
「あー……」羞恥心すら失っていることに、言葉が出ない。
 だが、いつもアニスの世話をしているルトイクスの方は実際的だった。あれこれ考えるより先に、現状への対処に頭を働かす。
「下にソーリスかインディリムがいると思います。大変、申し訳ありませんが、呼んでいただけませんか?」
 わかった、とルシャデールは階下へ向かう。が、客間を通り過ぎる時、引き寄せられるように覗き見てしまい、ぎょっとする。
 青黒いあざが、二ヵ所。背中に、くっきりとついている。
 あわててルトイクスは、部屋に入っていく彼女を止めようとするが、
「離しなさい!」一喝した。
 上着を脱ぎ、腰回りを隠させてから、アニスの前にまわる。胸や腹、足、あちこちにあざが残っている。
 階段からでも転げ落ちた? 
 何か事故や異変があったら、告げるように従僕頭には言いつけてあるが、何も聞いていない。それに、転げ落ちたにしては多すぎる。
「何なの、このあざは!?」
ルトイクスに詰問する。
 従僕の顔がこわばる。視線はルシャデールにつながれ、どう対処するか迷っているかのように、瞳は暗く明滅した。ユフェレン相手にごまかしようがないと判断したのだろうか、ややあって、彼はぼそっと言った。
「申し訳ありません」
 世話をしている中で、言うことを聞かないことがたびたびあり、体罰を加えたのだという。最初は手をつねる程度だったが、それが叩くようになり、だんだんエスカレートしていったという。
「このばか者が!」
 かっとして、ルシャデールは手近に落ちていた小鉢を取り上げ、ルトイクスに叩きつけようとした。その時、アニスの手が彼女の袖を引っ張った。振り向いた彼女を、澄んだ瞳が射抜いた。
 そこにいたのは、頼りなげな、無垢の存在。善もなく、悪もない。夢もなく、絶望もない、あるがままの姿が、窓から差し込む淡い光に包まれている。
 一瞬、彼女はユフェリのどこか美しい場所にいるかのような錯覚に襲われた。
 それを破ったのは、膝に感じた冷たさだった。それとともに、尿の匂いが鼻につく。見ると、じゅうたんが濡れている。それが彼女の服に染みてきたのだ。
 そういえば、粗相をしたと言っていた。
「げっ」
 御寮様にあるまじき汚い呻き声とともに、あわてて立ち上がる。
「お召替えを……」
「うん。アニスの方を頼む。あざをつけたことについては、後で話をする」
 すっかり頭も冷えていた。


 ソニヤが用意してくれた服に着替えながら、ルシャデールは考えこむ。アニスに暴行を働いた従僕が、自分の姿に重なるような気がした。
 私が……悪いんだ。あんなになったアニスと向き合うのが嫌で、彼らに任せきりにしてしまった。
「従僕さんたちも苦労しているようですよ」
 さっき、ルシャデールが怒っている声を聞いていたのだろうか、ソニヤが言った。
「うん、そうみたいだね」
 長衣の下にはく下ばきズボン、サニエを取り換える。その上に木綿の下スカートをつけ、それから黄色がかった白の長衣をつける。
「赤ちゃんと変わりないですからね、今のイスファハンさんは」
 ソニヤは紅いサッシュを女主人に手渡す。
「赤ちゃん……」
「ええ、赤ちゃんに怒っても、仕方ないじゃありませんか。よく、知恵遅れの人のことを、お坊様は『神様に近い人』という呼び方しますでしょ、それと似たようなものかもしれません。でも、なかなかそう思えないでしょうね。まだ十五、六のお兄さんたちには」
 皮肉な呼び方だね、と言ったルシャデールに、ソニヤは、これは私の考えですが、と前置きして言った。
「きっと、周りの者に何か大きなものを与えてくれる、という意味じゃないでしょうか」
「大きなもの?」
「赤ちゃんを育てていく時、親も一緒に育てられているんです。赤ちゃんは何を言っても、わかってくれないですからね、こっちの思うようにならないことがいくつもあります。それを乗り越えていくうちに、いろいろなことを教えられるんですよ」
「……」
 そういえば、シリンデが言っていなかったか? 狂気の中にこそ神は宿る、と。
 ソニヤの言葉は、ぽん、と、シャデールの背中を押したようだった。
 事の次第を知ったトリスタンは、アニスに暴行を加えていた二人の従僕に暇を出すと言ったが、ルシャデールがそれを止めた。
 ソニヤの言ったことが本当なら、アニスと関わることは二人にも何かをもたらすのだろう。そして自分にも。