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猫を洗う

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そろそろか、と思わせる頃合いが訪れたのだと思います。
 ちょうど私があらかたの日課を終え、もう風呂の湯も抜いてしまおうかと思ったときに、脱衣所の脇の湯上げタオルを重ねている上に愛猫がひょっこりと顔を出して、喉を鳴らすのでもなければ尻尾をぱたつかせるような様子もなく、ただ不機嫌そうな顔でこちらをじっと見るのです。私はひょいと彼を抱え上げました。
 腕の中で丸めてみると、何か、においがします。普通、猫は独自ににおいをもったりはしません。その毛皮に鼻を埋めても、使い古した畳のようにこんもりとした、単に毛が呼吸を妨げる感じがするだけです。だのにこの猫、なにやら怪しげなにおいを醸しているのです。犬の獣臭さや、人間の汗のにおいとも違う、妙にぬるい温度のにおいの塊が湧くように鼻に届きます。
思えば、彼を最後に風呂に入れてやったのは、もうずいぶんと前になるんじゃないかという気がしました。
 実は、彼はめずらしく水の平気な猫で、事もなげにシャワーに顔を突っ込むし、湯を抜かないまま浴室が開け放ってあれば、そのうち、ちょうど猫くらいの大きさ重さのものが、バシャンと湯船に落っこちる音が聞こえてきます。見に行けば案の定、器用に二本足で立って、残り湯から顔だけを出した彼が見つけられるのです。
そういう猫だから、家族もみな面白がって、誰かの気が向いたときに風呂に連れ立つのが常でした。それもすっかり忘れて、ここ最近は私も身のまわりの事にいくつかの変化があったものだから、猫の風呂のことまで頭が回らずにいました。他の誰かが入れてやったかどうかもわかりません。

 だから、今日は私が入れてやろうと思ったのです。
 せっかく彼を抱えているのだし、そのまま浴室に下ろしてしまって、私はシャツの腕をまくるだけで済ませることにしました。彼の爪が少し伸びているのが見えたときは、もしや引っ掻かれたりしないかと躊躇う気持ちもどこかにあったはずですが、このときの私は衝動に駆られるように、そういった手順や危機感を無視していきました。
 蛇口をひねり、少し多めの水を流しながら適当な温度になる頃合いを待ちます。彼はうんともすんとも言わず、相変わらず仏頂面のまま小窓のあたりを見ていました。それは何枚かの細長い摺りガラスを金属の機構で繋げてある、所謂ルーバー窓で、ハンドルを回すと摺りガラスが傾いて外気が流れ込んでくる仕組みなのですが、窓を見る彼の目からは、どことなくその仕組みを解かっているような気配がします。すごいことです。猫である彼にとって、この窓はさぞ不思議な物でしょうに。人である私にとってすら、この機構について真面に考えようものなら、不思議に感じます。

 猫の平熱はおおよそ三十八度。湯がそのくらいまで温まったら、尻尾の先からシャワーをかけていきます。いきなり頭から濡らすのはあまりに薄情な気がしてできません。
 濡らしてしまうと、彼の大きさは半分くらいになります。人の頭のてっぺんの、毛がまっすぐに生えているところを濡らすとぺしゃんと縮こまるのと同じことが、彼の場合、身体のほとんど全部の場所で起こります。ついさっきまでふわふわとした感触だった彼も、今では丸めたジーンズくらいの硬さになりました。
 猫を洗ったことがない人は、一匹の猫をすっかりずぶ濡れにするのにかかる時間は十秒ほどだろうと想像するかもしれません。実際は、もう少しの時間が必要です。真上からシャワーをかけるだけでは毛は上手に水を弾いてしまいますから、本当は四方八方、向きを変えながら挑むのが良いのですが、猫もこのときばかりはなかなか頑なな気概をみせるもので、一向にお腹のあたりを狙わせてくれません。私の場合、シャワーのホースを持ち上げて、そこに彼の両手だか、両前足だかをひっかけて立たせます。そのすきに胸から腹にかけて濡らしていく方法に落ち着きました。
 それから猫用のシャンプーを、あるいはボディソープを洗面器に垂らして水で薄めながら泡立てて、それを掌で掬ってかけながら洗っていきます。この瞬間の彼は、いつも明確に不機嫌です。身体をやたらに触られるのが嫌なのか、私の手の間をすり抜け、浴室の壁伝いにくるくると回って、私による作業を先延ばしにしようとします。それを追う私も浴室の中央でくるくると回る羽目になるので、大変です。
 洗い終われば、洗剤を流してやります。ですがどうにも、独特のぬめりが残るのが気がかりです。以前、このぬめりについて獣医さんに尋ねたことがあり、それで普通なのだと知ってはいるのですが、ほんの少しの猜疑心から、余計入念に流そうとしてしまいます。
 それが済めば、いよいよ彼を湯船に落とします。予め浴槽の半分ほどまでお湯を抜いておいたので、ここは躊躇なく突き落として大丈夫。彼もご満悦です。

 手で湯船を掻いて、水流で彼をゆらゆらさせていると、彼の瞼が少しずつ下がってくるのがたまらなく面白い一時です。きっと寝るつもりなのです。
 寝かさぬためにも、適当な頃に彼を湯船から引っ張り上げます。全身の毛がたっぷりと水を吸い上げているので、彼の四本足や尻尾、頭などを私が手で握って水を絞り出します。脱衣所に移してからも最後の大仕事をしなければいけません。ドライヤーです。水が好きな猫はいても、これが好きな猫はおそらくいないでしょう。轟音です。この段になってはじめて、声を出して抗議する彼に、私も胸をちくちくさせながら風を当てて乾かします。

このとき、脱衣所の外では扉越しにドライヤーの轟音と彼のあげるにゃああという声を聴きながら、私の母がイチゴを食べておりました。すっかり真新しい毛並みになった猫と、何か所か引っ掻かれたところを押さえながら現れた私に、母は言います。
「イチゴ食べる?」
 そのイチゴは昨日私が買ってきたものです。
「そのイチゴ、失敗だったね。あまり美味しくないでしょ」と私は言いました。母はどこか上機嫌に
「どんなイチゴも、練乳かければ甘いのよ」
 そう言って、キッチンの方へ歩いていきました。
作品名:猫を洗う 作家名:Commy