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大地は雨をうけとめる 第8章 魂の抜け殻

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 しかし、その日の夕刻、ケテルス・ヌスティが輿を伴って訪れ、彼を屋敷に連れ帰った。もう一晩、様子を見るためにもここに留まったらどうかと、トリスタンは言ったのだが、これ以上迷惑はかけられぬと、ヌスティが断った。
『もし、何か起こったとしても、それはソワムの命運。癒し手なんぞに、どうこうできるものではない』
 役にもたたない癒し手は引っ込んでいろ。そう言わんばかりの言いぐさに、トリスタンはかなり気を悪くしたようだ。実際、今回のことではトリスタンも、同じ癒し手のセラフード・レセンも手立てがなかったのだが。


 へゼナード・ソワムがアビュー家を訪れたのは、それから五日ほどたってからだった。主人のパルシェムも一緒だった。
「アニサードに会わせてください」
 張りのある声で体調はよさそうだが、表情はくもっていた。すでに聞いているのかもしれない。
 ルシャデールは傍《かたわ》らの養父を見た。いいよ、と彼はうなずいた。
 彼女はへゼナードとパルシェムを案内する。
 扉を開ける前に、二人を振り返る。
「もう聞いているんだよね?」
「うん」パルシェムが答えた。「養父から聞いた。でも……」
 信じたくない、と小童は言った。彼女だってそうだ。
「どうぞ」
 ドアを開ける。
 アニスはソファに座っていた。三人が入ってきても反応はない。虚《うつ》けのように空《くう》を見つ
めている。
「ソワムが目覚めた次の日、彼も目を覚ましたけれど、ずっとこの状態だよ」
 ルシャデールは平静に言った。
 シリンデの話から前もって覚悟はしていたし、取り乱しはしなかった。いや、取り乱さないようにつとめていた。
「アニサード……」ソワムは彼のそばに寄る。「おれだよ、へゼナードだ。ソワムだ。戻って来てないのか? 戻れなかったのか?」
 ゆっくりと彼の方に顔を向けたアニスは、何も目に映っていないかのようだ。開いた口の端から、よだれがすーっと垂れる。隅に控えていた従僕が、失礼します、とへゼナードをよけさせて、アニスの口を拭いた。

 
「申し訳ありません」
 トリスタンの部屋で、着座するなり、へゼナードは深々と頭を下げた。
「私がイスファハンを巻き込んだがために、このようなことになってしまいました」
 その横で、パルシェムは顔をこわばらせたまま何も言わない。
「君のせいではない」トリスタンは言った。「イスファハンは自らの意志で君と一緒に行こうとしたのだろう。なぜかはわからないが」
「イスファハンは……」へゼナードはルシャデールをちらりと見て、少しためらった後で話を続けた。「小侍従という身分が重荷に感じていたようです。その他にも理由があるのかもしれませんが、それ以上のことは聞いておりません」
 それから、彼はユフェリに入ってからの顛末《てんまつ》を話した。
「……ホユックと別れてから、私たちはただあてもなく、歩き回っていました。
 ユフェリのことは私も多少は聞いておりますが、聞くと見るとではまったく違いました。どれくらい時間がたったのかもかわからず、もしかしたらこのままカデリに戻れず、向こうで死ぬことになってしまうのか。それを思うと焦りと恐怖を感じました。
 そこにいるのは番人のホユックだけなのか、彼が言っていた『御方様』とは誰なのか。イスファハンにたずねたら、彼は少しの間考えてから、『シリンデ……かもしれない』と、月を見上げて言いました。霧が晴れてからというもの、月だけは常に私たちの頭上にありました。
『シリンデ!』と、私は月に呼びかけました。『もし、おまえがここの主なら出てこい!』と。神和家の小侍従として、あるまじき言いぐさですが、いくぶん腹を立てていました。それから、二人でまたしばらく歩き、そのうちに歌声が聞こえてきたのです。

『わらわは種をまこう
 水も光もなき固く荒れた地に
 千年先、万年先には、大地も柔らかになっていよう。
 光がさしていようか、潤おす水が流れていようか。
 種はその時、芽を出すであろう。
 幾千、幾億の種をまいたなら、緑の野が現れようか。
 鳥歌い、花そよぐ園ができようか』

 よく覚えていませんが、そんな歌です。頑《かたく》なな人の心を嘆いているのか、悲しげな歌でした。
 大きな岩の上で、女性が歌っていました。長い銀の髪をして、美しい人でした。どういう理由で呼び出したのか、と聞かれ、シリンデだとわかりました。私たちは、カデリに戻る方法をたずねたのです。その方は『道はそなたらの胸の中にある。求めよ。さすれば、おのずと見出せよう』と、それだけ言って姿を消しました。
 イスファハンと私は、また歩き始めました。しかし、シリンデと会った後、私の中に不思議な感覚が生まれていました。行くべき方向がわかる、といいますか、背中を押されるような感じです。
 そうするうちに、ごうごうという水の音が聞こえてきて、気がつくと私たちは川岸に立っていました。幅の広い大河で、向こう岸は暗くて見えません。その岸に、小舟が一艘、つながれていたのです。櫂《かい》も櫓《ろ》もついていませんでしたが、私たちに迷いはありませんでした。二人で小舟に乗り込み、河を下り始めたのです。
まるで大雨のあとのように、河は激しくうねり、小さな舟はそれに翻弄《ほんろう》されていました。
 最初は気づきませんでしたが、河の中には大岩がいくつも突き出ていました。小舟はそれをかすりしながら、なんとかやりすごしていましたが、何度目かに衝突して、ひっくりかえってしまったんです。舟から投げ出され、私は水面に浮かんで来た時に、近くを漂っていた小舟に手をかけることができました。
 イスファハンは……波の間に頭と手が片方、ちらりと見えて、それが最後でした。
気が付いたら、私はこちらに戻っていました。イスファハンも戻っていればいいと思ったんですが……」
 へゼナードは床にこすりつくほどに頭を下げた。
「申し訳ありません! 今回のことは私の責任です。どうか、お気のすむようになさって下さい」
 ユフェリのことは、神和師のような卓越したユフェレンでもわかっていないことが多い。怪異にあって精神に異常をきたしてしまう者がいることは昔から知られているが、そうなった人間を救う術は見つかっていなかった。同じ経験をしても、へゼナードのように無事に戻って来る者もいる。
「君のせいじゃない」トリスタンの声は落ち着いていた。「すべて物事は起きるべくして起こる。天の図ることに無駄などない。今回のことも、きっと何か意味があるのだと、私は信じている」
 だが、へゼナードは頭を上げようとしなかった。
 ルシャデールは立ち上がると、その前まで行って膝をつき、その腕を取って顔を上げさせた。彼は泣いていた。
「よく、来てくれたね。ユフェリで何があったか、イスファハンがどうなったか、知っているのはおまえだけだったから、どうしても話を聞きたかった。おまえには、ここよりも先に行くべきところがあるのに」
「御寮様……」
「パルシェム殿」ルシャデールは慇懃に言葉をあらためた。「ソワムを一刻も早く、病の父親のもとへ帰しておやりなさい。おそらく一週間、もつかどうかです」