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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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時計

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9. 春の嵐


 春と呼ぶにはまだ早いような肌寒さだった。それでも、空気は一進一退しながらも確実に暖かくなってきていたし、気の早い花などはすでに、その花弁を弱い陽光に晒してもいた。
 三年生のいなくなってしまった学校は、何となく拍子抜けしてしまう。かつて三年生が使っていた教室は、話し声も消えて妙に寒々としていた。この時期、二年生は実質的に最上級生同然となる。実際には、まだ三年生はいるのだが、次に彼女たちに会えるのは卒業式くらいのものであった。
 綾音はひとり、人の姿の絶えた廊下を歩いていた。
 三年生の教室群は旧校舎に隣接した棟にある。陽射しが斜めに差し込み、かつてここで学んだ生徒達の机や椅子を静かに照らしている。それらのものは、最後に使われた日に整頓されたにもかかわらず少しずつ変に乱れており、後ろを向いたままの椅子などは、まだ彼女達がそこにいるかのような錯覚を覚えさせるのだった。
 綾音はわけもなくこんな所をうろついているのではなかった。美術準備室へ行くという立派な理由があるのだ。
 昨年の学園祭での大成功もあって、綾音は晴れて美術部長に選任されていた。
 部長と言っても、体育系のクラブのように「えらそうに出来る」という特権があるわけでもない。要するに、面倒なだけなのだ。その証拠に、今も雑用を言いつけられてここまで来ているのである。
 その雑用とは――。
「何が悲しくて、こんなこと、私がしなきゃいけないのよ」
 綾音は誰もいない廊下で愚痴をこぼした。 無理もない。綾音は今から備品の点検に行くのだった。手には、リストを持っている。それを挟んだノートは端がすっかり丸まっていて、どうすればこんなになるのかと感心するほどに汚れていた。しかし、それは表紙に書かれた使用開始年月日を見れば、たちどころに納得出来る。その日付は、何と一〇年も前のものだった。
 準備室の前を一旦通り過ぎ、綾音は年代物の時計と向き合った。
「歌苗さん」
 呼びかけてみる。
 文字盤に歌苗の姿が浮かび上がった。
「すっかり寂しくなっちゃったね」
 そう言って、綾音は今しがた通って来た廊下を振り返った。
「仕方のないことよ。毎年のことだもの」
 歌苗が言う。
「私も、もう三年生なのね」
「早いものよ。月日の経つのは」
「歌苗さんでも?」
 綾音は、歌苗にもそのような時の感覚があるのだろうかと思った。
「ええ。私の場合は、綾音さんとは違うけど。ただ、通り過ぎる人達の顔ぶれが、どんどん変わってしまうの」
「それも、仕方のないこと?」
「そう。私はここにしかいられないもの。時間的にも、空間的にも……」
 歌苗は瞳を伏せた。
「何? それ」
 下を向いたとき歌苗は、綾音が手にしている薄汚れたものに気づいた。
「ああ」
 綾音は自分の手元を見た。「これね。うん――。備品のチェックよ」
「チェック?」
 ああそうか、と綾音は今さらのように気づいた。歌苗は横文字に弱いのだ。それは、今ほど外国語を使う機会がなかったこともあるが、戦時の言語規制の影響によるものが大だった。
「要するに、調べものよ」
 綾音は分かり易いように言い直した。
「綾音さん一人で?」
「手伝ってくれるの?」
 綾音の声が、少し弾む。
「私なんかがやったら、却って邪魔になるわ」
「結局、一人でやるしかないのね」
 綾音は肩を落とした。
「先に済ませたら? それからゆっくりお話ししましょうよ」
「まあ、それもそうね」
「それじゃ、また後でね」
 綾音は、しばしの別れを告げると、準備室へと入って行った。
 すえたような埃っぽい匂いが鼻をつく。製図器にイーゼル、コンプレッサー、色見本など、昨年に使った時に正常だったものには適当に「○」をつけていく。調べる必要があるのは絵の具などの消耗品の残量だけということになるのだが、それが特殊なものでない限り部員自ら持参して来るので、そう滅多に使われるものでもなかった。
 だからと言って、確認もせずに印をつけたりしようものなら、そんな時に限って何かが足りないのだ。ここは面倒ではあっても、調べてみるよりほかはなかった。
 綾音は結局すべての項目に○印をつけて、これなら最初から調べるんじゃなかった、などと文句を言いながら準備室を出たのだった。
「終わった?」
 歌苗が訊く。
「うん。何とか――」
「面倒なことは、先に片付けておかないとね」
「うん」
「どうかしたの?」
 綾音がしかめっ面をしているのを見て、歌苗が訊いた。
「うん。ほ……埃が――」
 そして綾音は立て続けに三回ばかり、大きなくしゃみをした。「酷い埃なんだから! いやんなっちゃう!」
 まだ鼻をすすりながら綾音が言った。
「ふふ……」
 歌苗が笑う。
「何よ」
「今からそんなこと言ってていいの? 綾音さんには、まだまだやらなきゃいけないことがいっぱいあるのに」
「やらなきゃいけないこと?」
「そうよ。例えば、ほら――次の学園祭とか」
「あっ、そっか!」
 そう言われて、綾音は初めて思い至った。学園祭はまだ先のことだからいいとして、気がかりなのは新年度が始まってすぐのことだった。それは、部員の勧誘という仕事だった。
「今から考えておいても、早過ぎるということはないわ」
「でも、考えてみても何をしたらいいのか分からないわよ」
「どうして?」
「私、ずっと行き当たりばったりで来たんだもの」
「まあ……!」
 二人は顔を見合わせた。そして、小さな溜め息をついたのだった。
「もう、春ね」
 綾音が、窓の外に目をやりながら言う。
「ええ」
「何だか、空っぽ」
「何が?」
 綾音が突然そんなことを言ったため、歌苗は訊いた。
「学校よ。それに、何だか私自身も空っぽになっちゃったみたい……」
 綾音は遠くを見つめるような目をした。
「それは、あなたが一回り大きくなろうとしているからよ」
 歌苗が言った。「これから三年生になったら、もっと責任も増えるし、考えなければならないことも今までとは比較にならないくらいに増えてゆくわ」
「そうね……」
 綾音はこれから先のことに思いを巡らせた。
 進学にせよ就職にせよ、夏休みが始まるまでにはしっかりと考えをまとめなければならない。これまで進路について特に悩んだことのなかった綾音がぶつかる、それは初めての大きな壁であると言えた。それは高校受験とは比較にならないくらい選択の幅が広く、就職という道さえある。とは言え、せめて大学までという両親の希望もあるし、高卒での就職先などそう多くはない上に、待遇もたかが知れていた。
「自分では全然変わっていないつもりなのに、無理やり一回り大きな器に放り込まれたようなものよ」
 難しい顔をして考え込んでいる綾音に、歌苗が言った。
「何だか、気が重いなぁ……」
「心配することないわ。大丈夫、出来るわよ。今の綾音さん悩みは、ほんのちょっとした気の迷いでしかないんだから」
「気の迷い、ね……」
 綾音は呟く。
「心配なんて、するだけ無駄よ。綾音さんは放っといても三年生になってしまうんだから」
「うん。その通りね。――もう、考えるのやめとく」
 明るい調子を取り戻して、綾音は言った。
「でも、肝心なところだけは、しっかり押さえるのよ」
作品名:時計 作家名:泉絵師 遙夏