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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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あの日の空に帰りたい

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 叔父の入院は、そう長くは続かなかった。それほどまでに、死は早く訪れた。お通夜や葬儀の時、声をひそめて参列者が囁き合っているのを翠は耳にした。皆一様に翠の方を窺いながら。漏れ聞こえて来た言葉に、翠は身体を硬直させた。
 ピカの毒。原爆病――
 それでも翠は知らぬふりをして葬儀の手伝いをした。翠の差し出すお茶を、何人かはそれとなく拒否した。そして、その場を去ると、また聞こえてくるひそひそ話。叔父の方の親類縁者や近所の人は、妙子が広島出身だと知っているはずだった。それに、叔父が連れ帰った翠も広島の生き残りだと、たとえ公言せずとも覚られていて当然だった。そんな翠の気持ちを知ってか知らずか、妙子は忙しく立ち回るばかりだった。
 火葬を終え、白木の箱に収まった叔父と共に家へ戻った。仏壇にお光とお香を上げてから、妙子は翠に向き直った。
「辛い思いをさせて、ごめんね」
 妙子は正座のままに言った。
「何のことですか」
 翠も足を崩さないまま問うた。
「翠さんも、聞いたやろ」
 翠は黙って妙子を見つめた。
「ピカの毒やなんて、気にせんとき。原爆病やとか、んなアホなこと、あらへん」
「気づいてはったんですか」
「当たり前や」
「でも、ホンマに関係あらへんのですか」
「関係あるかも知れへん。でもな、もしピカの毒がホンマにあってもな、そんなん感染るもんやない。せやなかったら、ウチはどうなるんや? おっちゃんと翠さんの二人と、ずっと一緒におったんやで。二人分の毒もろて、とっくに死んどるはずちゃうか」
「でも、おっちゃんは……」
「気にし過ぎや。人は、死ぬときには死ぬんや。あんたのせいとちゃうで。誰に何言われても、気にしたらあかんで」
 叔父の死後、遺品の整理をした。それほど多くもなかった本は、全て翠に与えられた。文机の抽斗に、そう遺言された半紙が残されていた。それはつまり、叔父は入院が決まった時、既に自身の死を悟っていたということだった。その同じ抽斗の奥に手を伸ばし、妙子がそっと何かを胸元に仕舞うのを、翠は見逃さなかった。
 翌日、夕食の後に妙子は言った。
「翠さん、身体の調子はどないなん?」
「ええ、おかげさまで」
 そうは返したものの、酷く疲れていた。洗い物は台所に浸けておき、後で洗うつもりだったが、それも億劫だった。
「無理したら、あかへんえ」
「分かってます」
「分かってへんやろ。今かて真っ青な顔してんのに」
「ウチ、そんなに酷い顔してますやろか」
「原爆にやられたもんはな、疲れ易うなるんやて」
「ほなら、やっぱりピカの毒はあったんですか」
「毒かどうかは分からへん」
「この前は、そんなこと言うてゃあらへんかったやないですか」
「昨日、ウチが抽斗の中に何か見つけたんは知ってるやろ」
「ええ」
「あれな、おっちゃんがつけてた記録やったんや」
「記録言わはりますと?」
「徳山から広島に行って、あんたを連れてきてから今までのや」
「そこには、何が書いたぁったんです?」
「さっき、言うた通りのことや」
「見せてもらえませんやろか」
「あんたは、見ん方がええ」
「どないしてもですか」
「せや、翠さん。あんた、まだ全部思い出せへんのやろ。それに、図書館のこともあんねんゃから。世の中にはな、知らんでもええこともある。あんたの心がそれを知りとうないんやったら、それは知らんでもええことなんや」
「ほいなら、ウチはどないしたらええんですか」
「しんどかったら、休んだらええ」
「じゃけん」
 つい、元の言葉が出てしまう。
「ええよ、ええよ」
「でも、おっちゃんもいゃあらへんようなって、お金もいるん違うんですか」
「心配せんでええ。うちは恩給も、おっちゃんの年金もあるさかい。あんたが気張らんでもええ。しばらくはバタバタしよっけど、そんときは宜しゅうにお願いします」
 妙子に深々と頭を下げられて、翠も身を正して手をついた。
「こちらこそ、ご迷惑をおかけします。ホンマに迷惑ばっかりかけて、申し訳ありません」
 畳に頭を擦りつけて、翠は言った。
 翌朝、翠は床から起き上がれなかった。眼は覚めているのにも関わらず、身動ぎすら出来なかった。
 原爆にやられた者は疲れやすくなる。妙子の言葉が甦る。女の身でありながら、家のこと一つ出来ない自分が情けなかった。気力を振り絞って布団から這い出したはいいものの、それ以上は動けなかった。脱力し、虚ろに畳の目を見つめるだけ。やらなければと思うほどに、言うことを聞かない自分の身体が恨めしかった。
 いつまでも起きてこない翠を案じて、妙子が二階へ上がってきた。半ば布団から脱したまま転がっている翠を見て、妙子は慌てて声をかけた。
「翠さん、どないしたん!」
「すみません、なんか調子悪いみたいです」
 喋るのも面倒だったが、翠は何とかそれだけを言った。
「みたいどころやあらへんやろ。今日はゆっくりしよし」
「いえ、何とか」
 無理に身を起こそうとしたが、腕に全く力が入らなかった。
「ほれ、見よし。色々疲れが出たんやさかい」
「ホンマに、すみません」
「何言うとんねゃ。さ、ちゃんと布団に横になり」
 妙子の介添えで、翠は布団に戻った。
「ウチ、やっぱりピカの病気なんやろか」
「かも知れへんな」
 妙子は否定しなかった。「せや言うても、病気はみんな一緒や。休まなあかんときは休まなな。せやないと、治るもんも治らへんよってに」
「治りますんやろか」
「治るわいな。結核かて、今は死なへんのやさかい」
 それを聞いて、翠は力なく笑った。