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緑閃光

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 そして魚がいなくなってすぐ、私はある使命感に襲われていた。それは実に無根拠で、衝動的なものであったが、衝動というものはそういう小さきものたちを置き去りにできるほどの活力を秘めていることは言うまでもない。落ちていた帯を拾い、適当に締めたのち、ビニイル傘片手に宿雨の街へと出かけた。

















 
 雨粒が大きい。透明なビニイル傘を貫いてしまうのではないかと心配するほどであったが、それ以上にあの魚はどこだという探求心が勝っていた。
 見慣れた道を延々と小走りで進み、蒼閃光の欠片を追いかける。あれほど神々しい蒼色など有り余るほどの消費世界であってもそうはない。ましてこんな住宅街に放置されているはずはない。



 小さな植木鉢に朝顔らしい茎が見える。しかしそのちょうど真上に雨樋があり、屋根に刺さった大粒の雨が押し流されるように伝ってきていた。植木鉢には先ほどから濁水が供給され続けている。朝顔はもう生きてなどいまい。



 雨は強いが、風が全くと言っていいほど吹いていない。にもかかわらず、向こうでビニイル袋が舞っている。雨に貫かれようとも反発するように宙を舞うビニイル袋。奇怪なこともあるのだなと普段なら思うだろうが、今日はあそこに魚がいるに違いない! と思っている。
 そう思うと途端に雨景色の中に蒼色が映った。やはり、あそこにいたのだ! 私は嬉しくなってビニイル傘を強く握って走り出した。弾いた雨水が着物にかかり、酷い臭いを出しているが、そんな些細なことには興味もない。あの蒼を……。あの蒼を……。あの蒼を……。あの蒼を……。あの、蒼を……。
 走りながら、私はあの魚を一体どうしたいのか、分かっていないことに気が付いた。非常に漠然とした衝動だったということに改めて気づかされたのだ。空洞なまま外形だけ留める衝動に身を任せていたことを不思議に思う。


 空洞な衝動。それはどこか魚に似ている。蒼閃光を鱗に回らせ、ゆらりと私を誘う。その内側に油に満ちた肉があるかは、分からない。おそらくそういう内側は存在していない。魚に当たった雨はきっと乾いた音を出して、その奥の空洞な中身を聞かせてくれるだろう。そのためには、もっと魚に近づかなくてはならない。

 
 ああ、魚はやはり美しい。蒼が雨の粒子を打ち壊しながら透過している。強く降る雨粒一つ一つの外周に蒼の線が付け加えられているのだ。
 魚の近くまで走った後、魚の全体を眺められる程度のところで立ち止まった。ばちゃっと跳ねた雨水が衿下にかかり、幾分か体が重くなったかのように感じた。
 魚は私に気づいたが、今度はどこにも行かず、しばらくゆらゆらと漂っていた。揺れる度に蒼色が閃光となって周囲に広がり、その度に雨が蒼色に染まった。色を持つ雨は強酸や死の雨などあまり良いものではないように思えるが、深海から取り出された蒼の雨は、人生で一度は体験しておきたい気象現象だろう。



 魚はゆっくりと泳ぎだした。まるで私の呼吸が整うのを待っていたかのように、私の血流の安定の瞬間にゆらりと進んだのだ。体のすべてを見透かされている。そこに恐怖を覚えることもあったかもしれないが、私は全く恐れることもなく、ただ畏怖的な感傷に浸りながら魚の後をついていった。    
 その時、私は自分の体に拙い鱗が生えたような気がした。つまり稚魚になったような気になったのだ。

 宿雨が止むことは永遠に来ないように思えた。












 魚は空中を、ちょうど私の胸の高さを浮遊している。水の中を泳ぐかのように、暗い雨景色をゆらゆらと泳いでいる。そしてその暗い雨景色の中を、海底を歩くかのように私も歩いている。
 魚との海遊は実に美しい世界を生み出していた。魚は進むたびにその後ろに蒼色の尾を引き連れ、その尾は次第に拡散し、周りの雨景色にも干渉し、宿雨のつまらない日常に煌びやかな色を刺している。その姿は箒星に似ている。そしてそういう神秘的な生物の後を付きまとう稚魚にもそういう神秘的な空気感が漂い始めているような、そういう気になっているのだ。
 魚は私が住む地域を泳いでいるのだが、なぜか私が歩いたことがある道だけを選んで泳いでいるようで、三つに分かれた大通りに差し掛かっても、よく通る真ん中の道を選んで泳いでいる。
 泳いで、泳いで、それでも魚は泳いでいる。宿雨に染められているものたちには興味を示さず、むしろ自分の蒼閃光で染めている。それは一種、強引にも見えるが、魚はそういうことを一切考えていないようで、事実、魚は何か一つの目的地しか見ていない。その目的地にいる何かによって手繰り寄せられているかのように、ただ、前にしか泳いでいない。魚は強引でも傲慢でもない。ただそれしか行えることがないような、そんな風に思えて仕方ない。
 着物はもうほとんど濡れてしまっていて、体が随分重くなっていた。繊維と繊維の隙間を狙って雨粒が入り込み、互いに引っ付いては繊維に隠れていたいくつもの臭いを引き出していた。しかし、そういうことをする雨粒が大多数になってしまったので、繊維から出てくる臭いよりも雨の、雨粒の臭いが強くなりだしていた。雨粒本来の、重い臭いと雨景色に隠れている些細な土の匂いが傘の中で充満し互いに風に乗って絡まっている。そしてそれらに包まれながら、なんとなく卑屈な気分になり始めていた。

 
 電柱から伸びる吊り電線から落ちてきたのか、一際大きな雨粒が傘に落ちてきて、その振動で着物に新鮮な雨がかかった。先導する魚にもいくつか当たっているようで、反射的な揺れを見せていた。
 魚はその雨粒が嫌だったのか、突然くいっと向きを変え、小さな小道に入った。その小道は今まで通ったことがなく、むしろそこに道などあったのかと思うほど影が薄い道だった。

 
 もちろん、私は魚の後を追った。小道を覗くと蒼閃光が狭い道の両端に並ぶブロック塀によって反射され、密度の濃い蒼トンネルが出来上がっている。頭上からは雨が乱雑に、けれど重なることなる降りしきっているので、蒼色は上に逃げず、八方塞がりになっているのだ。
 ブロック塀の下には側溝が伸びていて、宿雨の影響か、今にも溢れ出しそうになっている。側溝には蓋がしておらず、冠水してしまったならば、誤って落ちてしまいそうな、そういう側溝だった。
 魚は側溝を嫌っているのか、道の真ん中を泳いでいた。その道は傘が三つ分ほどの狭さだったので、魚がちょうど真ん中を泳いでいるのは偶然だったのかもしれない。

 

 それからしばらく、魚は何の変化も見せない、ただの海遊をしていた。狭かった道は次第に広くなっていき、側溝には蓋が設けられ始め、遂には歩道と車道を分ける縁石が設けられ、中央には白い線が描かれた。それでも魚は道の真ん中を泳ぎ続けていた。
 私は非常に困った。今、魚の後ろについて泳ぎ、歩いている場所は紛れもなく車道であって、さらに二車線ともなると、その真ん中を歩くことがいかに危険で、非常識なことか、そういうものを感じ始めていたからだった。
作品名:緑閃光 作家名:晴(ハル)