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洋舞奇譚~204号室の女~

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腫瘍内科のスタッフになってからは、ひたすら研究をした。おりしも分子標的治療薬が登場してきて、劇的な変化が起きた時代だった。面白く、いくらでもデータがでた。博士論文は一流学術誌に受領された。専門医資格も無事に取得した。両親は婚期を気にしていたが、喜んでくれた。なにより、今までは死を待つしかなかった病気の患者が、劇的に回復するのがうれしく、治療が楽しかった。
夫になるひとは、同じ大学病院で、違う臓器を専門にする医者だった。性格は真逆だが、まあまあ楽しいし、嫌になることはないかな、と思った。細かいことをいわないのがよかった。結婚してまもなく、病棟責任者になった。どんどん忙しくなった。役職は増え、会議が増えたけど、違和感が強くなった。医者の仕事かどうか、わからないことが多くなったから。違和感が強くなったころ、夫がピアノを運んでくれた。いったいなんだったのか、よくわからないけど、やはり彼はいろいろ見ていたのだろう。ピアノは、10年ぶり。指は、動かなかった。聞きたい音色は、出せなかった。歯がゆい思いで、古い楽譜を実家から取り寄せては弾いていた。

アメリカ東海岸の研究所は、ワシントンD.C.からほど近いベセスダの森の中。コアな研究者がたくさんいるなかで、コアな細胞の研究は楽しかったが、結果を出さないと評価にならない厳しさが桁違いで、消耗した。とはいえ、同僚やほかの留学生も週末は仕事をしない。細かい作業や、データの処理は技術者がやる。理論と、論文制作をするのが本業だから、実によくできた分業になっていた。技術者の気持ちを大事にしないと、出るデータも出ない。気配り、を学んだのはむしろベセスダで、だったかもしれない。
せっかくだから臨床も見ていこう、と無理やりシカゴとテキサスに寄り道をねじこんだ。シカゴでは銃撃戦に巻き込まれ、あわや、ということもあったが、アカデミックな研究室で、免疫チェックポイントの臨床研究をさせてもらった。しかし、寒かった。
テキサスのがんセンターは巨大ながん治療ビジネスの拠点で、たくさんの臓器の、たくさんの移植が、当たり前に行われていた。骨髄移植は、標準的ガイドラインから外れず、必要な人に必要な順番で行われていた。この患者は助けたい、ちょっと無謀だかがんばろう、のようなところはなかった。ここでも、医者がやるべき仕事は、決断すること。連続勤務には時間制限があり、休日の数はそれぞれが設定して契約していた。勤務時間が終わると、未練なく引き継ぎをした。
どこでも、シフト後には、よく連れ立って郊外の演奏会に行った。各所に質の良いホールもあった。同僚はボランティアでホスピス演奏会をしていた。実はジュリアードまで出たヴァイオリニストだった。誘われて、彼の自宅で、患者だったチェリストと、簡単なトリオをやらせてもらった。抗がん剤で指がしびれてね、といいながら、彼のチェロは、まろやかな音色を奏でた。凄腕の肺がん治療医だったヴァイオリニストは、君と弾けてよかった、治療した甲斐があったね、この薬なら、チェロがだいじょうぶだね、続けられるね、またコンサートを企画しよう、そういって次の治療と演奏会のスケジュールを相談していた。チェリストは、泰子に、次はこれを一緒にやろう、と言って、ラフマニノフのヴォカリーズを渡してきた。書き込みがたくさんで、ほとんど手書きのようになった、シコルスキの楽譜。泰子が日本に戻る2日前、がんセンターの講堂でトリオの演奏会をした。スタッフも患者も聞いていた。たくさんの日本人が来るけれど、演奏したのはYasukoが初めてだよ、日本人も音楽の楽しみを知っているんだね。ヴォカリーズ素晴らしかったよ、脳腫瘍科の部長が泰子にそう話しかけ、緩和部の主任看護師と三人でバッハと高次脳機能の話をずっと続けて、帰国前日の夜は過ぎていった。そんな演奏会で、得るものが多かったのはむしろ泰子のほうだったかもしれない。
日本では色々と疑問を感じることが多くなった。違和感は、どんどん強くなった。治りますか、と聞き続ける患者。絶対死なせない、と息巻く若手の医者。エヴィデンスは、とお題目のように言い続ける次期教授候補の准教授。がん患者の痛みのケアは初心者以下だった。心のケアなどだれもしていなかった。がんを集学的に診よう、という機運はあった。がんの緩和ケア講習会が始まり、泰子は第一回の受講証を手にし、がん治療の専門医も第一回の試験で通った。しかし、男性医師の脳は簡単には変わらない。診療は勝ち負けじゃない、ということが理解されない。
息苦しさに負けそうなとき、康子は実家の庭を一心に手入れした。薔薇を植え、季節の植物を植えた。鎌倉の家は海が近く、名刹も近く、半日でも過ごせれば気持ちが楽になった。実家に帰りやすいように、月曜日には横浜の仕事を入れた。パソコンも得意なもので、ホームページを作り、ブログを書いた。薔薇のこと、鎌倉のこと。音楽のこと。交流できる友達もできて、ちょっと世界が広がった。
父ががんになり、さらに人生の矛盾感が強く、強くなったころ、バレリーナが入院してきた。ストイックで美しい子。強烈な病気で、顕微鏡越しにその白血病細胞とご対面したとき、こいつ相手に勝ち目はないと絶望にかられたが、ファイターのバレリーナは戦い続けた。臍帯血移植もした。一度は生還した。嘘のように穏やかに、正常な臓器機能でにっこりしている彼女は、ほんの数日の間。嵐のような移植片対宿主病で全身が硬化し荒れ果て、挙句に白血病細胞が雨後の筍のように増殖した。苦しいね、眠ろうか、といったとき、わたしが選んだ治療だから、とやはりにっこりとした彼女、でも、お母さんをお願いといって、もう話はできなくなった。ターミナルケアにシフトを、と指示しても、血気盛んな主治医は、移植後なんだから可能性があるでしょうと言い張り、人工呼吸器をつけた。戦い切った彼女にふさわしい尊厳はないのか、という議論はなかった。結局母上が、これは延命ですよね、と。延命でさえもない、とお話しするほかない。母上は、これを着せてください、と、パキータの衣装を持ってこられた。ひどい浮腫で、衣装は着せてあげられなかった。送り出した後、看護師が泰子にぽつりと言った。先生はあんなに言ってくれたのに、どうしてこんな最期になったのか、わたしたち、なにかできたでしょうか。悔しいですよ、あの子が大事にしていたこと、ひとつも守ってあげられなかった。