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短編集52(過去作品)

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――窓際だったら、それほどきつくないはずだわ――
 という考えだったのだ。車窓を見ていることで、少々人に押されて苦しくても、気分転換になるだろうという考えだった。
 ほどなくして、電車がホームに滑り込んでくる。人の頭でハッキリとは見えなかったが、滑り込んでくるという表現がピッタリだった。それだけホームの後方から見ていた。
 ホームの後方から見ているといろいろな人がいる。
 新聞を広げている一般的なサラリーマン。耳にヘッドフォンを当てている人、携帯を弄っている人、さまざまだった。何もしていない美紀だったが、見ていて何となく悲しくなったのはなぜだろう。自分はきっとこのまま何もせずに、ずっと通勤を続けるのだろうと思わずにはいられない。
 滑り込んできた電車の扉が開き、人が吸い込まれるように前に歩いていく。扉から中が見えたが、すでにすし詰め状態、だが、ここで諦めるわけには行かない。必死で中に入ることを試みた。
 何とか窓際で踏みとどまろうと思い、扉が閉まるのを今か今かと待っていた。表からは男性の手が押し込んでいるのが分かる。いわゆる駅で雇っている「押し込み屋」と言われる人たちだろう。本当は何と呼ばれているのか分からないが、美紀は「押し込み屋」と呼んでいた。
「うっ」
 声にならない悲鳴が聞こえる。あんな低い声はどこから出ているのか分からないが、自分で気付かないだけで、美紀も出しているに違いない。まるでこの世のものとは思えないような声ではないかと思うのは大袈裟であろうか。
 必死になって乗り込んでいる時間が、どれほどのものかは分からないが、このままずっと続くのではないかと思ったほどだった。扉が閉まる前になる警報が遠くの方で鳴り響いている。他の音はかすかにしか聞こえないのに、それだけは鳴り響くという表現がピッタリだった。扉が閉まるのをそれだけ待ちわびている証拠であろう。
――やっと閉まる――
 笛の音が聞こえてきた。断片的に聞こえるその音は、押し込み屋を即しているに違いない。背中に注意を払いながら、じっとしているしかなかった。
 すると、背中を一気に押された気がした。押し込み屋の手ではない。後ろから思い切り突進されたような感覚が襲ってきた。肘でも当たったのか背中が痛い。
――一体、何なのよ――
 後ろを振り返ろうとしたが、振り返ることができない。扉は閉まり、ぎゅうぎゅう詰めの中、電車は発車していった。
 前の方から一気に雪崩が襲ってくる。ゆっくり発車しているはずなのだろうが、人の壁はそれをさらに越えるものを持っている。体重よりもさらに重たいものが勢いというもので、耐えられそうに思っていた中、思ったよりもきつさがあった。
 だが、最初の想像以上に、列車内に余裕がないわけではない。少なくとも人が雪崩れるだけの隙間はあるのだった。
 人の胸の中で揺れている自分を感じると、男性の匂いが漂ってくる。汗のような酸っぱさを感じるが、コロンの臭いと混ざり合って、気持ち悪さを誘う。美紀はそれほど背が高いわけでもないので、人ごみの中は苦手だった。
 子供の頃に、人ごみの中に取り残され、ひっくり返ってしまったことがある。容赦なく踏みつけていく足は誰のものとも知れず、分からないのをいいことにわざとされているのではないかとさえ思ってしまったほどだ。
 その時は大声を出して泣いた記憶がある。泣いたら誰かが助けてくれるという甘い考えがあったのかも知れないが、結局誰も助けてくれるはずもない。気付かない人も多いのだろうが、そんな状態で人のことを構っていれば、自分にも危害が加わる可能性もある。それを皆嫌がっているのだろう。
 大人になれば、自分だって嫌なのは分かる。しかし子供心に誰も助けてくれないという思いは、トラウマとしての精神的な傷跡を残した。
――人を頼ってはいけない――
 と思うようになったのもそのことがあってからのことだった。
 大人になってからの美紀は、背が低いとはいえ、子供から比べれば、ひっくり返ることもない。人ごみの中は嫌いであるが、身動きが取れないほどの満員電車であれば、却っておしくら饅頭の原理で、人に押されたまま身を委ねればいい。しかし、中途半端に混んでいると自分の体重は自分で支えなければならず、不安定な中で、足の置き場が制限される形になる。下手にフラフラしてはまわりの人に迷惑だ。
 分かっているが、平衡感覚に関してはあまり得意ではない。運動神経はよい方ではなく、体力測定でもあまりいい成績は残せなかった。特に安定感に欠けるところがあって、スポーツには向かない。
 それでも水泳だけは得意だった。
「平衡感覚が一番いりそうなスポーツなのにね」
 と友達はいうが、まさしくそのとおり、
「一番驚いているのは、当の私。どうして水泳だけが得意なのかしら?」
 先生に言わせると、
「泳ぎのコツが分かっているんだよ。水の抵抗をいかに和らげながら、力をどこで入れるかが身についているのかも知れないね」
 と言われた。
 そういえば、小学生の低学年の頃、水泳は大の苦手だった。スポーツ全般が苦手で、その中でも水泳は特にだめだった。
「水の中に顔をつけて、そして浮くなんて、考えられないわ」
 と言っていたのだが、ある日、水泳の授業中に友達が溺れかかって、たまたま近くにいた美紀の腕に掴みかかった。
 泳げない美紀にとってはたまらない。
 ただでさえ力のない小学生、どんなに泳ぎが達者な人でも、友達に掴みかかられて二人を支えなければならなくなれば、パニックであろう。
 どうすることもできず、そのまま苦しみながら、バタバタしていた。気がつけば先生が助けてくれていたが、その間どれほどの時間だったのか、想像もつかない。
 しかし、それからなぜか泳げるようになった。
「やっぱりコツなんだよね」
 先生はそれ以上言わなかったが、溺れそうになった時、無意識に泳ぎのコツを会得したのかも知れない。先生は、きっとトラウマになっていたらいけないと思って言わなかったのだろう。
 したがって、泳ぎが得意になったのは偶然の事故が原因である。元々の平衡感覚がよくなったからではない。
 電車の中などで立っているのは苦痛だった。吊り革を持っていても、身体が流れるようになって、そばにいる人に寄りかかってしまうこともあった。
「ごめんなさい」
 と小さな声で謝るのは、相手の顔をまともに見れないからだ。以前、相手を見上げて謝った時、見下ろすような表情にいかにも嫌味な雰囲気が漂っていた。それから相手の顔が見れなくなったのだ。
 美紀にとって、電車は恐怖だった。自分が苦しむこともさることながら、
――まわりの人に迷惑を掛けてはいけない――
 という思いから、却って足に力が入らず、フラフラして安定感を失ってしまう。足がガクガク震えているのが分かり、それを他人に知られてしまうことも怖かった。
――本当は、この苦しみを誰かに分かってもらいたい――
 という思いが強いのだろうが、それと同じくらい、いや、それ以上に、
――気付かれるのが怖い――
 と感じている。
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次