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赤狭指村民話集成

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はしがき~赤狭指村の沿革



━━はしがき━━

 本書は、赤狭指(あかさし)村の各所で採取された民話9話と、付録として『赤狭指村の沿革』を納めたものである。民話を納めるにあたっては、語り手の口調を尊重し、民話としての体裁を保ちつつ、現在ではわかりにくい語や言い回しを、なるべく意味の通じるものにするよう心がけた。『赤狭指村の沿革』については、赤狭指村の歴史と現在とをわかりやすく概略し、本書に納められた民話への理解がより一層深まるようにとの思いで、付録として追加したものである。本書によって、我が国の民俗学の発展にいささかでも寄与することができれば幸いである。
 はしがきの最後に、本書の作成に惜しみない協力を注いでくださった方々と、民話の採取に快く応じてくださった語り手の方々に、厚く御礼を申し上げたい。

編著者



━━赤狭指村の沿革━━

【地勢】

 県の南西部に位置し、北西から南東にかけて細長い立地を形成している赤狭指村は、人口2000人弱の小さな村である。面積約12.65㎢、人口密度は156人㎢。北西の赤狭指地方には、標高約800mの風光明媚な赤狭指山がそびえ立ち、南東の潮音(しおね)地方には、太平洋に臨む閑静な潮音海岸が広がっている。村中央の平野部である床津(とこつ)地方は、上記の山と海を結ぶ良霧 (よしぎり)川と、平野部のほぼ中央に位置する床津沼によって、質のよい湿地帯が広がる地となっている。


【古代】

 潮音地方には、規模は非常に小さいものの潮音貝塚の存在が確認されており、これによって赤狭指村に人々が住み始めたのは、古墳時代だろうと推測されている。また、同時代にはすでに床津村周辺で開墾が行われた形跡があり、土器などもいくつか発掘されている。


【中世】

 鎌倉時代中期、この地を訪れた塔行(とうぎょう)という僧によって、赤狭指山に北養院と南養院の二寺が建立された。寺内には、当時の生活ぶりを偲ばせる重要な石造物なども多々保管されている。また、鎌倉時代後期には、後に高名な僧となる好念(こうねん)が、潮音地方臨然寺の住職である覚休(かくきゅう)に引き取られ、師事している。
 室町時代には、潮音地方の豪族であった潮音家がいち早く勢力をまとめ上げ、潮音氏として小規模ながらも大名化を果たした。しかし、他勢力による度重なる侵攻により力を失い、安土桃山時代に大名家としての潮音氏は滅亡している。


【近世】

 江戸期に入ると赤狭指、潮音、床津の三地方は幕府の天領扱いとされ、何度か飢饉などの災害に見舞われたものの、農商業の盛んな地として繁栄を遂げた。また、この頃書家として名高い奥之院 印斎(おくのいん いんさい)が、赤狭指地方に居を構えている。
 大正期に入って町村制の実施に伴い、赤狭指郡と床津郡が合併し赤狭指村となった。その後、昭和初期に赤狭指村と潮音村が合併し、今現在の地勢の赤狭指村が誕生した。


【現在】

 現在の赤狭指村は、赤狭指山での林業、潮音地方での漁業、床津地方での農業の三つが産業の柱となっている。
 昨今、赤狭指山は、主にスギやヒノキなどを中心に積極的に植栽を行っており、今後有力な山林の一つとして有望視されている。潮音地方の漁業は、主に養殖漁業を行っており、ホタテやカキといった貝類、ワカメなどの海藻類の養殖が盛んである。床津地方では、主に良霧川沿いで春菊が多く生産されており、赤狭指春菊は知る人ぞ知るブランドとなっている。しかし、その一方で村民人口の減少や高齢化に伴い、林産物、海産物、農作物、いずれも出荷数が前年を下回り続けており、後継者の不足が懸念されている。
 その他、村には観光地としての側面もあり、良霧川、床津沼、潮音海岸での釣り、赤狭指山でのクモなどの虫の採集、同じく赤狭指山での登山(タヌキやアナグマが見られることもある)を楽しむ人々で賑わっている。


作品名:赤狭指村民話集成 作家名:六色塔