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愛シテル

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 グランドピアノは、リクヤの引越しの荷物の一つだ。元の持ち主はユアン・グリフィスで、彼の形見としてリクヤに遺されたものだった。リクヤの家にあった時はダイニング・テーブル代わりに使われていたのだが、引越しを機に小学校に寄贈されることが決まった。フルコンサートタイプのピアノは、居間に据えるには大き過ぎるし、第一、誰も弾けない。あのユアン・グリフィスの愛用した名器を、引き続きテーブルとして使うのは、宝の持ち腐れもいいところだ。楽器は音を出してこそである。
「…エースケ、その『りっくん』はよしてくれないかな? いくつになったと思っているんだ」
 グランドピアノは改装されたばかりの音楽室に運び込まれた。以前の音楽室ではピアノだけでいっぱいになってしまうので、物置として使っていた隣の空き教室との壁を取り払って、部屋を拡張した。一台のピアノのために町は大騒ぎであるが、かの大ピアニスト『黄金のグリフィン』が愛用したスタインウェイを迎えられるとあって、誰もが協力を惜しまなかった。教室の改築もボランティアで行われた。
「いくつになっても、りっくんはりっくんだろう? それに君は僕達に比べたら、まだまだお子様だよ。『リクは子供っぽいところがあるから』って、サクヤも言ってたぞ。ねえ、そう思わない、ジェフ?」
 チェリストのエースケ・ソワは人懐こい笑顔の持ち主で、英語も堪能であった。
 日本人二人はジェフリーよりも四才年上だったが、彼らもまた、実年齢よりずい分と若く見える。本当に東洋人の年齢は読みづらい。
「まあ、確かに、可愛らしいところはあるよね」
「何、言ってるんだ、ジェフ」
 もう一人の日本人エツシ・カノウは調律師で、もくもくと仕事をしている。彼は英語が苦手で、エースケは通訳を兼ねていた。わざわざ日本から調律のために来たのは、彼らが生前のユアン・グリフィスと親しくしていたからだ。特にエツシはその腕を気に入られて、海外の演奏先にまで同行することがあったほどの調律師であるらしい。このピアノがユアンのコンドミニアムからリクヤの元に渡された時も、彼が調律したのだと言う。
「本当はサクヤが来たがっていたんだけど、どうしてもスケジュールが合わなくってね。ごめんね、世界一のヴァイオリニストの演奏じゃなくって」
 『サクヤ』とは、リクヤの二卵性双生児の兄で、世界的なヴァイオリニストである。調律師のエツシとはプライベートでパートナー関係にあると、ジェフリーは聞いていた。
 美しい旋律が教室中に満ちる。調律が終わって、エツシが試し弾きをしていた。「あっ」と言う間に、教室の外には子供達のみならず、教師達も集まった。本格的なピアノの演奏など、ここら辺では珍しい。短い一曲が終わると拍手が起こり、エツシが会釈で返した。
「オーダーは軽めにしておいた。前の通りにしたら、とても子供には弾けないからな」
 ピアノから離れて、エツシが話の輪に入る。勿論、日本語で、ジェフリーのためにリクヤが通訳してくれた。
 今夜、このピアノを使ってここでミニ・コンサートが催される。プログラムはチェロとピアノの二重奏、それからピアノのソロ。ピアノは調律師であるエツシが弾くことになっていた。ピアノ・ソロの曲はユアン・グリフィスが得意としたベートーヴェンだ。
「あいつほど、ベートーヴェンは得意じゃないんだけど」
とエツシは照れたように笑った。
「さく也がすごく心配していたぞ。医者も辞めてしまって、世捨て人みたいな生活しているって。でも良かった。元気そうだし、また医者の仕事をするんだって?」
「手伝うだけさ。ちょっと目を離すと、すぐに無理する患者もいるしな」
 リクヤがジェフリーを指差した。彼とエツシの日本語での会話は、エースケが通訳した。内容を聞いて、ジェフリーは肩をすくめて見せる。
「彼を誘ってくれて、感謝しています。俺はあまり知らないけど、さく也の話によるとりく也は結構、わがままで天邪鬼で、扱い辛いところがあるみたいだから。やりにくい点もあるかも知れないけど、よろしく」
「何だ、それ? 『よろしく』世話してやっているのは俺の方だ。食事の管理も、服薬管理も。ジェフは自分のこととなると、良い患者とは言えないからな」
 リクヤが呆れたように、エツシの言葉に反論した。
「リックの言う通りなんです。二十ポンド、ダイエットしないと『離婚』されてしまう」
「ジェフ、人聞きの悪いこと言うなよ。離婚ってなんだ、離婚って」
「まあまあ、りっくん」
 エースケが二人に割って入る。彼らの会話が早口で苦手な英語でとなると、エツシには理解出来ないようだったが、それでも話の流れから想像出来るのか、笑みを浮かべていた。
「今度はさく也と一緒に来るよ。きっと今のりく也を見たら喜ぶ」
「余計なことは言わなくていいから」
「今まで見る限りでは、余計なことは何ひとつなさそうだけど?」
「エツ!」
 ポーンとピアノの一音が響いた。振り返ると子供達が物珍しげにピアノの周りに集まっている。誘惑に負けた一人が鍵盤に指を落としたのだ。教師が慌てて注意するのを、リクヤが「構わない」と制した。それを見て、他の子供達も好きな鍵盤に触れる。様々な音が、にぎやかに撥ねた。楽しそうに、嬉しそうに、音は笑っている。クルクルとよく表情が変わり、贅沢に感情を表現したユアン・グリフィスのように。
 リクヤはその様子を、目を細めて見ていた。
 きっとそんなリクヤを見て、ユアンは微笑んでいるだろう。彼は誰よりもリクヤを愛していた。ユアンこそ、今のリクヤを見たなら喜ぶに違いない。
 それと同時に、
――今頃、妬いているかなぁ
遥か上空の雲の隙間から地上を覘き見て、地団駄踏んでいるユアンの様子を想像してみる。なかなか楽しかった。
 思い出には勝てない。でも思い出は増えていく。明日がある限り、昨日も今日も思い出になるのだ。
 これから先、リクヤと思い出を重ねて行けばいい。今の気持ちも、良い思い出になる。
 ジェフリーはリクヤの穏やかな笑みを、飽かずに見つめた。



作品名:愛シテル 作家名:紙森けい