小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

愛シテル

INDEX|41ページ/56ページ|

次のページ前のページ
 

本編最終話 〜April りく也50才 ジェフリー51才〜





 りく也がその病室を訪れたのは、午前二時を回った頃。明かりが抑えられた中、ユアン・グリフィスは眠っていた。彼を起こさないように気をつけながら、ベッドに近づく。
 右腕に点滴の管が、鼻には肺機能低下に伴う心不全を防ぐために、酸素を供給するカニューラが装着されていた。化学療法のために、自慢の金髪が不自然に抜け落ちた頭にはニット帽。痩せてすっかり面変わりした彼に、かつて『黄金のグリフィン』と呼ばれた美貌は、見出せなかった。
 ほんの少し開いた口元にりく也は指先を翳した。微かに呼気が当たる。最低限の明かりは、こけた頬に影は作っても、胸の動きまでは照らし出さない。思わず確認せずにはいられなかった。
 白衣のポケットに戻ろうとしたりく也の手を、ユアンの左手が引き止める。
「…リクヤ」
 掠れ気味の声が名を呼んだ。
「起こしたか?」
「うとうとしていただけだよ。睡眠は十分過ぎるほど足りているから」
 薄明かりに慣れた目が、ユアンの笑顔を捉えた。
「そうか」
と、りく也は自分の手首を掴む彼の手を、やんわりと外そうとした。しかし、すっかり骨ばって握力の失せているはずの手は、簡単には外れなかった。以前のりく也なら振り払っているところだが、さすがに病人相手にそれは出来ない。もう一度試みても結果は同じだった。りく也はあきらめて、そのままベッドの縁に浅く腰をかける。
「…病気になるのも、悪いばかりじゃないね。こうして、君が気を使ってくれるもの」
 ユアンの声は笑みを含んでいた。ねめつけるりく也の表情が見えているのか、いないのか。そんなやりとりはいつものことだから、気にしていないのだろう。
 ユアンが手を離したので、りく也は腰を浮かせた。するとすぐに長い手が伸びて手首を掴む。仕方がないので腰を戻した。手は弛んだが添えられたままで、りく也が動く素振りを見せると、『力の入らない手』に力が入った。しばらく静かな攻防が続き、ユアンの息が少し上がったところで、りく也はついに折れた。
「カルテぐらい取らせろよ」
 そう言ってワゴンに乗ったカルテを指差すと、ユアンも素直に応じた。
 ペンライトでカルテの治療記録を追う。点滴の種類と量が、日に日に増えていくのが見て取れた。懸念された肺炎の兆候は解消されたようだが、抗がん剤の副作用による吐き気と、口腔内いたるところに出来た炎症のために、固形物はほとんど口に出来ていない――溜息をりく也は寸でのところで止めた。患者(ユアン)が自分を見ている。不安にさせる仕草は、医師として失格だ。
「…君が眼鏡をかけることを、…ここに来て知ったよ」
「五十になったんだ。老眼くらいかけるさ」
「…なかなかセクシーだ、…老眼鏡とは思えない…」
「そりゃどうも。息が上がっているぞ。おしゃべりは止めて、安静にしていろ」
「せっかく…、最愛の君が…、来てくれているのに…?」
「仕事中だ。すぐに終るから、その間だけでも黙ってろ」
 耳に優しい音量の音楽が入ってきた。穏やかな曲調のクラシックだ。無粋な機械音以外に音がないのは嫌だとユアンが言うので、この部屋では途切れたことがない。さっきまで聴こえてはいても耳に留まらなかった。他愛もない会話の一言、二言が、ここに入室した時から続いていたりく也の緊張を解き、音楽の存在を思い出させる。
 上質なリネンの枕カバーにシーツ、廊下に面した窓にかかるブラインドは、ユアンの好きな色で統一されていた。彼の友人である画家が贈った何枚もの絵が、殺風景な壁を飾る。
 一日中、騒々しいERと同じ棟にあるとは思えないほど、この病室には静かにゆっくりと時間が流れていた。
 特別な病室――特別な病人のために、特別に作られたICU。ただ、どんなに特別でも、死は避けられない。もうユアン・グリフィスには、ほとんど時間が残っていなかった。
 世界最先端の医療が、宣告された余命三ヶ月をさほど無理なく伸ばした。病院が用意した特別室は、最初の手術の回復期に使われただけで、看護師の常駐する自宅療養に切り替えられた。心身に負担のかからない程度の演奏活動も再開され、誰もが『黄金のグリフィン』の復活を疑わなかったが、それも長くは続かなかった。四カ月を過ぎた頃、目に見えて衰弱し始めたのだ。
 三月に入って寒い日が続き、ユアンは風邪を引いた。軽いと思われたが、免疫力が低下した身体にはかなり負担がかかり、肺炎の疑いが出てきたので緊急入院となった。幸い大事には至らなかったが、別の臓器に合併症が現れ、それを治療し終えた頃に、また別のところが悪くなる…と言う悪循環に、病状は一進一退を繰り返した。入院して一ヶ月、ようやく小康状態になったかと思うと、肺炎の症状がぶり返し、振り出しに戻った。そうして今では、一人で起き上がることが困難なほど、体力も気力も奪われている。
 りく也はユアンの手首の脈を取った。弱く早い脈動が、指先から伝わる。
 乱れた息が落ち着いているのをみて、聴診器をあてた。肺炎の兆候は解消されたとは言え、不自然な音が拍動に重なっている。胸元を整えてやり、カルテを元の場所に戻した。
 りく也がカルテから意識を外すのを待ちかねたように、ユアンの手が伸びる。そしてりく也の指に触れた。
「…眼鏡をかける君を知らなかった。左手でサイン出来ることも…ここに来て初めて知ったよ。考え事をしている時には、前髪をかき上げるんだね…? それに…君の手はいつだって…温かい」
 りく也の指を握りこむユアンの手は冷たかった。
「…学生に教える時も、子供の患者に接する時の顔も、初めて見る表情ばかりだ。…私の知らないことが、君にはまだまだある」
「人一人の全てを知ることなんて、出来ないさ」
「…それでも私は、君のことをもっと…もっと知りたい…」
 りく也の言葉に、ユアンは自由にならない身体を起こそうとする。右手の管が一瞬ピンと張って、点滴のパックが揺れた。彼が思うように動けていたなら、腕から針は外れていただろうが、身体以上に痩せた体力では、背中が少し浮く程度が精一杯。それもすぐにベッドに引き戻され、パックの揺れも収まった。ずれた鼻のカニューラを、りく也は素早く直した。
 頬を、一筋涙が伝う。
「死ぬのは恐くないんだ…、いつかは神の下に召されるのだもの。でも親しい人たちと別れるのが辛い。母や、兄や姉や、友人達。…誰よりも…君と会えないかと思うと、辛くてたまらない…」
 りく也はぼんやりとその涙を見つめた。この光景は、かつて見たことがある。やはりこうしてやせ衰え、管に繋がれ、りく也を乞いながら逝った女がいた。二十年以上の時を経て、再び同じ光景を見ることになるとは。
「あとどれくらい…私の知らない君を、知ることが出来るだろう…?」
 ただ、あの過去の女――母は、りく也を乞うたわけではなかった。鬱陶しいほどに呼びかけられた名も、「りく也」ではなく、彼女を捨てた、りく也に瓜二つの男、すなわち父のものだった。
「欲張るなよ。お前は他の人間が知らない俺を、知ってるじゃないか」
「リクヤ…?」
「俺の不機嫌な顔は、おまえしか知らないんだろ?」
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい