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愛シテル

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 ラウンジのドアが開いて同じレジデント仲間のジェフリー・ジョーンズが顔を覗かせたが、二人の姿を見て「失礼」と言って踵を返す。りく也が呼び止めようとするのと、かかる重みに耐え切れず、抱きしめるユアンごと椅子が床に倒れこんだのは同時だった。ついでに机も道連れにされ、カルテが宙を舞う。
「リクヤ!?」
「リック!」
 慌ててユアンが身体を離し、ジェフリーが駆け寄る。下敷きになったりく也は「痛てててて」と呻きはしたが、顔をしかめたのは整理・未整理関係なく散乱した、書類が目に入ったからだった。


「いつかきっと笑える日が来る。君がこんなに一生懸命なんだから。焦らないで。君の焦る気持ちは彼に伝染するよ。疲れたら、いつでも私の所にくればいいから。いいね?」


 りく也の記憶に残る一言は、かつてドクター・パトリック・グレイブから発せられた。彼は小児精神科医であり、二卵性双生児の兄・さく也の主治医でもあった。もう二十年以上前の話だ。
 母親の虐待により心を閉ざした兄は、ドクター・グレイブの治療プログラムで回復したのだが、その際、子供で何も出来ないことに焦っていたりく也をも支えてくれた。りく也が医師を志したのは彼の影響が多分にあり、最初は精神科を希望したくらいだ。
 兄の治療が終わったと同時に、彼とは間遠くなった。りく也自身、自由の利かない身の上で――日本有数の財閥の後継者だったので――、数年前まで日本に縛り付けられていたからだった。
 アメリカに戻った時、ドクター・グレイブが勤務していたボストンの病院を訪ねたが、請われてロスアンゼルスの病院に移ったと聞かされた。医学生としての研修、続くレジデンシィ・プログラムで忙殺され、時間が出来たらと思いつつ、再会を果たせずにいた。
 そして、再会の機会は永遠に来ないものとなる。
 タワーに突入した飛行機の乗客名簿の中に、パトリック・グレイブの名があった。前日まで古巣のボストンの病院で研究会があり、あの運命の朝に、ロスへ戻る飛行機に乗り合わせたのだ。
 後ろに撫で付けられたブラウンの髪、こめかみに集中している白髪、暖かな茶色の瞳――それらはニュースに映し出された写真の中のドクター・グレイブであり、りく也が知っている彼のものではなかった。
 あの色のない瓦礫と化した街で、優しい笑顔を向けた初老のドクター・グレイブは、彼の死を知った後に見た夢の中の登場人物だった。
 感情の入り込む余地もないほどに疲労した心が見せた夢。そう、疲れが見せた夢だ。
 

「リクヤ、心を閉ざしてはいけないよ」
「閉ざしているのは、さく也だよ」
「そうかな? 僕にはリクヤの方が重い病気に見えるけど?」
「どうして?」
「ここに来て一度も笑っていないだろう?」
「笑えるわけないよ。さく也があんななのに。あんな目に合わされたのに、どうして笑っていられるの?」
「お母さんが許せない?」
「許すもんか。あんなのママじゃない」
「神様が『許してあげなさい』と言っても?」
「神様なんていないよ。いたら、僕達をこんなひどい目に合わせないもの。前に神父様が良い子にしていたら、きっと神様が願いを叶えて下さるって言ってたけど、どんなに良い子にしてたって、助けてくれなかったじゃないか。僕は会いたいの我慢して、お父さんの言う通りに勉強もしたし、くそババア達の意地悪も我慢した。なのに、なのにそのご褒美がこれなの?!」
「リクヤ…」
「もう信じない。僕が信じるのはさく也だけだ。もうさく也以外、要らないんだ」
「怒るばかりじゃね、何も残らないよ。いくらパパやママに怒っても、何もなかった時には戻らないんだよ? 怒ってばかりじゃ、いつまでたっても嫌な気持ちで心の中がいっぱいのままだ。人を好きになることも出来ないし、やさしくしてあげられない。笑うことも泣くことも思い出せなくなるよ? 感じることが出来なくなる。楽しいことがいっぱいあるのに、素敵な人とも出会えるのに」
「僕はさく也を守っていくんだ」
「サクヤだけじゃなく、たくさんの人を好きにならないと。サクヤもきっとたくさん人を好きになるよ。その中から君と同じように彼をわかってくれる人を見つける。だから君も、サクヤを好きな気持ちと同じ気持ちで人を好きにならないと、いつまで経っても前に進めないよ」


 夢での会話は、過去の会話と重なった。なぜ今、ドクター・グレイブは実体ではないにしろ、自分の前に現れたのだろうか。彼の死を知った時、「ああ、そうなんだ」と思っただけで特別何も感じなかった。その事に抗議して、夢に出てきたのだろうか。
 彼は繰り返した。何も感じていないじゃないかと。そうして問う。「彼以外に人を愛したか」と。りく也にはその意味がわからなかった。愛を大盤振る舞いして、何がどうだと言うのだ。
 ジェフリーがスプレー・タイプの鎮痛剤を塗布する間、りく也は夢を反芻した。
 床に倒れこんだ時、左肩を強(したた)か打ったが、幸い軽い打撲で済み、痛みは簡単な治療ですぐに引いた。床に散乱したカルテは、ユアンが拾い集めた。今日の日付が記入されているもの、いないものに分けながら、彼は心配そうに治療の様子をちらちら見ている。その鼻の頭が赤いのは、りく也の無事を神に感謝した際の名残だ。
 血の繋がらない赤の他人が無事だったことを、どうして泣くほど神に感謝出来る?――りく也はユアンを見つめた。彼が寄越す何度目かの視線と合った。
「リクヤ、痛むかい?」
 正面から見ると鼻の赤さは二割増しで、思わずりく也は噴出す。
「何?」
 いつになく全開で笑うりく也が珍しいのか、ユアンはきょとんとした目を向ける。
「ルドルフ(赤鼻のトナカイ)みたいだと思って」
 りく也の答えに、今度は傍らにいたジェフリーが爆笑する。収まりかけたりく也の笑みは、再び口元に浮かんだ。
「ひどいよ、リクヤ、僕は本気で心配したんだよっ。君の無事がどんなに嬉しかったことか、わかってるっ!?」
 むきになるユアンの口調に、りく也とジェフリーの笑いは止まらなかった。この状況下ですっかり忘れられていた表情だ。外に漏れるのを憚って声こそは抑えられたものの、二人はその感覚を懐かしむように一しきり笑った。
「おっと、そろそろ日が暮れる。スタンバっとかないと。俺は先に行くけど、リックはもうしばらく休んでれば?」
 壁にかかる時計を見て、ジェフリーが言った。夜になると外来受付は消防士や警官で占められる。彼らは空気の悪い場所で一日中作業しているせいで、ほとんどが気管支を患っていた。日が暮れて作業が不可能になると、病院で治療を受けるのだった。そして翌朝、現場へと戻って行く。だから夜のうちはかなり忙しい状況で、病院側もそれに合わせてシフトを組みなおしていた。
「俺も行くよ」
 とりあえず記入し終えた分のカルテを集めて、りく也も立ち上がった。それから残るユアンに言った。
「おまえはもう帰れ。気が済んだろう?」
「今日は何時まで? アパートまで送るよ。もちろん、いつみたいに外で待っているから」
「上がりは当分なしだ。だから帰ってろ」
 りく也は念押しするように言い置くと、ジェフリーに続いてラウンジを出た。
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい