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愛シテル

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 ジェフリーはノロノロと起き上がって、大きく伸びをした。
「ミーシャが驚いてたぜ。Dr.ナカハラの流暢なスラング」
 セカンド・エリアでの経緯をミハエルから聞いたらしい。
「あいつにはあれで十分さ」
「相変わらず冷たいねぇ」
 リクヤ・ナカハラは医学生の頃から、明るく人当たりが良いことで知られている。無理難題を押し付けられても、嫌な顔を見せたことはなかったし、医学生の失敗にも怒鳴ったことはなかった。どんな患者に対しても変わらず親身で、容態が気になる場合には時間外で残ることも厭わなかった。
 しかし、ユアン・グリフィスに対しては少し違っていて、冷たいと言われても仕方が無いほど、素気無いのだ。
「真面目に相手したら、疲れるだけだ。なんなら変わってくれてもいいんだぜ、毎回、毎回、人に押し付けやがって」
「彼は君目当てに来てるんだから、それは無理ってもんさ」
 コーヒー・メーカーの傍に行って、ジェフリーは顔をしかめた。ポットは空で、フィルターも乾燥していたからだ。「ちっ」と舌打ちして、ごみ箱にペーパーを捨てた。新しいのを付けてコーヒーパウダーの缶を開けたところで、再度、舌打ちする。
「まったく、使ったら補給しとけっての」
 空っぽの中身を見せる。りく也は肩を竦めた。ジェフリーは仕方なく、りく也同様、冷蔵庫からミネラル・ウォーターのペットボトルを取り出した。
「でも何だかんだ言って、リックも面倒見いいよな? たいてい口喧嘩してるけどさ」
「まあね、ストレス解消ってとこかな。あいつと言い合いすると、スッキリするんだ」
「報われないな、黄金のグリフィンも。花に食い物に、さんざん貢いでるって言うのに」
「人聞き悪いな。勝手に送って来るんだ。こっちは頼んでないぞ」
「ますます報われない。こんなにつれなくて、柔らかくもなく抱き心地悪そうなのに、彼は君のどこに欲情するのかな?」
「知るもんか」
「つれなくするから余計に征服欲をそそるんじゃないの? 一度くらい相手してやったらどうだい?」
「他人事だと思って無責任なこと言うなよ、ジェフ。それに君に勝たしてやるつもりはないからな」
 りく也とユアンをネタに病院中が賭けをしていることは知っていた。つまり、りく也がユアンに落ちるかどうか。デート止まりとベッドイン、そしてユアンに全く望み無しの三点で、半年ごとに期限を切る。りく也のヘテロぶりからベッドインはいつの時も一番賭ける人間が少なかった。ジェフリーは大穴狙いで、常にベッドインに一点賭けだ。
 ドアが開いて、ミハエルが入って来た。ジェフリーが「オフか?」と尋ねると、力なく頷いた。マクレインのローテーションでは、医学生の拘束時間は基本的に九時から十八時で、これに週二回の夜間研修を入れる。あくまでも『基本的』であって、E.R.では応用されるのがしばしばだった。つまり医学生であっても時間外はあたりまえ。レジデントよりはマシ…と言う程度だ。だからここでのローテーションは人気がない。
 ミハエルはさっきのジェフリー同様、コーヒー・メーカーに近寄り、そして落胆した。コーヒーはあきらめてロッカーに足を向け、それから思い出したような表情で、りく也に向き直った。
「前に場違いなリムジンが停まっていましたよ」
「リムジン?」
と聞き返したりく也だったが、誰の所有車かはわかっていた。ジェフリーはニヤニヤ笑っている。その時、ドアがまた開いて、今度は看護師長のマーガレットが顔を覗かせた。
「ナカハラ先生、あのリムジン、何とかしてちょうだい。邪魔ったらないわ」
 彼女もよく知ったもので、りく也を名指しである。
 大きく息を吐いて、りく也は腰を上げた。


 後部座席のスモーク・ガラスを小突くと、まず窓が開いた。外灯が、ブロンドの髪と青い瞳を黄色く染める。りく也を確認するとドアが開いて、長い足が出た。
「ここに車を停めるな。緊急車両の邪魔になる」
 180センチのりく也を越す長身のユアンが、目の前に立った。
「車が来たら一回りしたよ。食事は済んだのかい? 差し入れを持って来たから、乗りたまえよ」
 彼の言葉が合図のように、車の中で物音がした。コンソメ・スープの匂いが漂う。ケータリング・サービスを連れて来ているのだろう。
「勤務中だ。とにかくこのでかい車を早くどけろよ」
「君と会うのは半年ぶりだけれど、相変わらずつれないね。僕は会いたくてたまらなかったのに」
 手がりく也の頬に伸びる。それをやんわりと掃った。
「ドイツのチェリストはどうしたんだ? ヨーロッパで一緒だったんだろう?」
「彼とは別れたよ。お互い、ツアー中だけの割り切った関係だったから。少しは、気にしてくれていた?」
 りく也はあきれたようにユアンを見た。彼は笑顔を作った。ゲイの気が少しでもある者なら、たちまち虜にされてしまう笑顔だ。今まで効果がなかったのはりく也とその兄の中原さく也だけだ。
 会うたびに口げんかになるし、なるべく期待を持たせないように素気無く接するにも関わらず、ユアンは諦めない。ジェフリーが言ったように、つれなくするから意地になっているのかも知れない。それに、遂に成就しなかった恋の幻影を、りく也の中に見ているのかも知れない。その相手は双子の兄・さく也だったから。双子とは言っても二卵性で、それぞれ両親に似たため背格好・面差しは似ていない。育った環境も違うから性格も違うのだが。
「いい加減に学習しろよ」
「これが僕の愛の表現だもの。とにかく、少し食べたらどうだい? 君のことだから、どうせジャンク・フードしか食べてないだろう?」
 車のドアを大きく開けた。コックの制服を来た男とギャルソンの格好をした男が、後部座席の奥に見える。リムジンはこのために手配したのだろう。ユアンは愛の為に金を惜しまない。それだけの財力もあるのだが嫌味がないのは、育ちが良く使い方が自然でスマートだからだ。
 ユアンは再度、りく也を促した。
「俺一人、食べるわけにはいかないから、構わないならみんなで食いたい」
 彼が想像した通り、連続勤務記録更新中のりく也はろくに食事を取っていなかった。それは昨日今日勤務しているスタッフも同様である。
「いいとも。運ばせるよ」
 ユアンは嬉しそうに言った。りく也が彼の好意に応えることは滅多にない。だからその気が変わらないうちにと、中の男達に料理を運ぶように指示した。
「おまえも一緒に食ってったらどうだ?」
「いいのかい?」
「忙しくなったら、帰れよ」
 歩き出すりく也の隣に、彼は並んだ。長い腕が肩に回ってくるのを感じたりく也は、少し歩速を上げた。すかさずユアンも速めて、横に並ぶ。それの繰り返し、二人は競歩並みの早歩きで搬入口に向っていた。
 りく也はいつの間にか笑っている自分に気づく。肩を並べて歩き、その上に笑顔でE.R.に戻ろうものなら、格好の話の種にされることはわかっていた。
 だからキュッと唇を結ぶ。先に帰り着こうと、りく也はダッシュをかけた。
 入り口で帰途に就くミハエルと会った。
「ミーシャ、君も食べて行けば? ごちそうが後ろから来るから」
 ワゴンに鍋を乗せて追って来るのを指差し誘った。「帰りの電車が無くなる」と、残念そうに断る疲れた医学生に、
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい