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「あの世」と「寿命」考

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。

               綾子と裕子

――あの世――
 その言葉を聞いて、皆はどんな発想を抱くだろうか?
――あの世とは、死んでから行く世界だ――
 という発想をほとんどの人が抱くに違いない。
「じゃあ、どんな世界をイメージする?」
 と聞かれると、これも言葉にするのは難しいが、誰もが似たイメージを抱くことだろう。ただ、皆がまったく同じイメージというわけではなく、いくつかある中からのイメージになるので、発想が限られているのは確かだろう。
 あの世と聞いて抱くイメージで一番大まかなところとしては、
「天国と地獄」
 であろう。
 限られたイメージのすべてが、この二つに凝縮されるわけで、天国と地獄のどちらをイメージするかによって、その人の性格が分かると言っても過言ではないかも知れない。
 天国というとイメージされるのが、蓮の花の咲く池のほとりに佇んでいるお釈迦様という印象が強いことだろう。お釈迦様のイメージも、パンチパーマのおじさんが、耳に黄金のピアスを施していて、黄金の玉座に乗って、背中の奥から後光が差しているというイメージである。
 お釈迦様の目は切れ長で、空いているのか閉じているのか微妙な感じの雰囲気を漂わせているイメージだった。
 テレビドラマなどで俳優が演じていたり、アニメでのお釈迦様のイメージもおおむね雰囲気に変わりはない。元々のイメージとしては、奈良や鎌倉にある大仏様がモデルになっているのではないかと感じる人も多いだろう。
 お釈迦様というと、仏様であり、神様とは別物なのではないかと思う。西洋の神話などで出てくる神とはイメージも違っている。なぜなら神も仏も人間の創造物なので、その国の民族衣装でイメージされるのも当たり前だ、西洋とインドでは明らかに民族の風俗、文化も違っている。イメージも限られているので、日本人が想像するお釈迦様や神話の神様もおのずとその国も民族衣装に近くなるのも当然であろう。
 天国のイメージはお釈迦様のイメージしか湧いてこない。西洋の神話の神が出てくることはない。天国と地獄というイメージは仏教世界でしかない発想なのだろうか?
 確かに人は死んだからと言って、神の世界に行くという発想はない。完全に人間と神の世界は別物であり、人間が神の世界に入り込むこと自体が罪であるかのごとくの発想である。
 しかし、仏教では天国という発想があり、お釈迦様のいる世界を天国、あるいは極楽浄土と呼ぶのだから、死んだ人間が行くところだという発想になるのだろう。
 では、西洋で人が死んだらどこに行くというのだろうか?
 ピラミッドやミイラの発想としては、死んだ人間はいずれ生き返るという発想があるのかも知れない。ただ、ピラミッドやミイラに関しては、王家と呼ばれる高級階級の人間に限ったことであるから、すべての人間に言えることなのかどうか分からない。
 ただ、人間というのは、この世では明らかな身分がハッキリとしている。今の民主主義と言われる世界であっても、人間の格付けは別にして、明らかな差別化が図られているのは確かだった。
 意識はしていなくても、どうしようもないことなのが、貧富の差である。権利や義務が比較的自由な国ほど、貧富の差は激しいのではないだろうか。自由ということは競争も自由ということである。人が集まればそこで生活する以上、起こってしまう競争は避けて通ることのできないものだ。当然お金を持っている人間が、持っていない人間を雇うという構図が出来上がり、雇われた方はお金を貰うという関係上、雇い主に逆らえないところがある。古代では奴隷という制度が公然と存在し、インドでは身分制度が現在も存続している次第だ。
 だからこそ、神や仏にすがりたいという風潮になるのだろう。特に原因不明の疫病が流行ったり、自然の猛威から、農作物に恵まれない年があると、飢饉が流行し、人がたくさん犠牲になる。そんな世情が乱れると、原因が定かではないため、人民の不安は神頼みとなるのも仕方のないことだろう。それと、死後の世界へのイメージとが結びついて、お釈迦様のいるところを「天国」、「極楽」としてイメージされたのだろう。
 考えてみれば、大仏建立も、疫病や施錠の治安の不安定さから生まれたものである。仏教が世の中を救ってくれるという発想からなのか、それとも死んでから天国に行けるようにという発想からなのか、天国の存在はなくてはならないものとなった。
 では、地獄というのはどんなものなのだろう?
 地獄というのは天国とは正反対の恐ろしいところというイメージである。血の池であったり、針の山であったり、この世では信じられない光景が繰り広げられる。そこにいるのはお釈迦様ではなく、鬼たちである。牙を生やした恐ろしい形相の鬼、ただ面白いのは、鬼もお釈迦様と同じパンチパーマというのを想像すると、なぜか笑えてしまうのだが、藁ってしまうのはさすがに不謹慎なのかも知れない。
 鬼を束ねていると思われる、いわゆる地獄の主というのが、閻魔大王と呼ばれる人だ。イメージとしては、なぜか裁判官のイメージなのであるが、それも少し考えれば頷ける。地獄に行った人は閻魔大王の前に引き出され、どうして地獄に来たのかを説明されたうえで、その人の悪行から、どの地獄に行くのかを閻魔大王に結審されることになるからだ。これもあくまでもイメージとして描かれているので、想像だけでは限られているのかも知れない。
 閻魔大王の声は完全にエコーが掛かっている。お釈迦様の声もエコーが掛かっているが、お釈迦様は余韻の残る通る声という雰囲気だが、閻魔大王はいかに相手を威嚇するかという意味では絶対的な脅威を持った声ではないだろうか。大王というくらいなので、地獄というところは王国になる。閻魔大王という絶対的な独裁者がいて、地獄にいる鬼は閻魔大王の奴隷なのか、果たしてその関係について考えたことのある人はいるのだろうか。
「地獄の沙汰も金次第」
 という言葉がある。
 閻魔大王が裁判官だという発想は、この言葉からも分かるというものだ。
――じゃあ、本当に地獄で金って通用するのか?
 と考えるが、考えるだけ無駄であった。
 この世で使っている金を地獄で使えるはずもない。どんなにこの世でお金を持っている人であっても、あの世に行ってしまうと、最初は皆平等なのだ。
「お金なんてこの世でしか使えないんだから、死ぬ前に使い切ってしまえばいい」
 という人もいるだろう。
 ただ、昔から言われていることとして、
「六文銭というお金が、三途の川の渡し賃だ」
 と言われている。
 その発想を家紋として使ったのが、戦国大名の真田家であることは有名な話だ。
 そういえば、十年以上前、韓国で問題になったことがあった。
 韓国には独自に、
「この世の終わり説」
 が存在していて、それを信じている人も結構な数いたことだろう。
「お金を寄付するという善行を行えば、この世が滅んでも天国に行くことができる」
 と言って、寄付を募った宗教団体があった。