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佐野槌 -張りの半籬交-

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六、女と男



「お持たせですみませんが、餡パンとお茶をお持ちいたしました。召しゃがってくださいませ」
「今評判の木村屋の餡パンかい? 初めて見るんだが旨そうだね。早速いただこう」
「あら、美味しそうに召しゃがりますこと。甘味はお好みですか? あたしもご相伴にあずかりましょう。これは黛の突き出しの錦絵でございますね。懐かしい……、見世が一番良いときでしたね。あたしもほらここにいますでしょう。よっく見て下さいませ。ちゃんと名前も書いてありますでしょ『遣りて さ代』と」
「あんた何ビックリしてるんだい? 女将じゃないのかって? そうだよ。佐野槌の遣り手のさよさんだよ。あたしの女房の勢以はとっくに死んじまったよ。もう二十年も前のことだ。女房が生きてる間は細見には『佐野槌屋せい』で出てたけど、死んでからはあたしの名前が長兵衛だから『佐野槌屋長兵衛』で出たよ。明治五年からは姓名で載ることになったんだ。中村長兵衛だ。お女郎の姓名も生まれも歳までも細見には載ったよ。本当に情緒がなくなっちまったね」
「明治四年まで、も少し遡るとあの安政の江戸地震までが本当の吉原でしたね」
「そうだな、その中でもこの黛はいっち出来た花魁だったな。江戸地震の行平鍋の施しだけじゃなくて、あのあとに年季が明けたら女夫になろうと誓った男ができたんだよ」
「見世の皆も喜んでいましたし、仲でも大勢の方に喜ばれましたね」
「ああ、黛を悪く云う奴なんざ仲には一人もいなかったからね。でもな、その人が死んじまったんだよ」
「あの時は普段は厳しかった勢以女将も見世を一日閉めましたからね」
「見世に坊主を呼んできて齋を設けて皆で弔ったんだ。一切合切黛が請け合ったよ。それに見世の番頭に香奠を持たせて男のふた親に届けたんだよ」
「そうそう、それで暫くしたら親御さんがお礼にと見世に来ましてね。黛は自分の部屋で丁重に持て成しました。それが嬉しかったらしくご夫婦は暫暫見世に来てくださいました」
「黛も自分の親のことを写してたのかね。えっ? 黛は年季が明けた後どうしたのかって? 悪いがそいつは教えられないんだ。あの里から出た人のことをあれやこれやと話すのは御法度なんだよ。でもね、黛は幸せになったと思うよ。そうなってもらわなくっちゃ、神も仏もないからね。それと、黛って源氏名はうちではそれまで何代か続いてたんだが、この黛を最後にだれにも名乗らせなかったよ。それくらいできた花魁だったよ」

「お茶を差し換えましょう。火事の話をされるんでしょう」
「そうだね、佐野槌の最後もこの人に知ってもらいたいからね」
「一番つらいときでございましたね」
「女房も死んでいたし、仲もどんどん変わっていっちまうし、いつ見世をたたもうかなんて考えたこともあったよ。そんなあたしの半ちくな気持ちが周りにも伝わったんだろうね。明治の八年に内から火を出しちまったんだよ。忘れもしない師走の十二日だ」
「ちょうど昼時分でしたね。台所から火が出て、あっという間に広がってしまいました」
「あたしが駆けつけたときには台所はもう火の海でね。行平鍋がそこら中に転がっていて、女とお客に逃げてもらわなくちゃならないから、とにかく大声を上げて大変だったよ」
「その声が二階まで聞こえてきて慌てて、あたしは二階中の部屋に声を掛けて廻りました」
「幸いだれも巻き込まれなかったけど、西北の風にあおられて仲のほとんどか焼けちまってね、申し訳ないことをしたよ。小アヒ金といって月毎に組合に積み立てていたから弁財なんかはしなくても良いんだけどね。小アヒ金? うちは月に二十円だったよ」
「でも、あの火事は本当につろうございましたね」
「あの後も何年か見世を続けたけど、もうあたしも見世も燃え滓だったよ。それで明治の十三年に見世を畳んだんだ。そっからこっちはこの人とここで大人しく暮らしてるよ。子どもたちもよそで頑張ってるからね。ここが終の棲家だよ。これが佐野槌の生涯だよ。こんな話で良かったのかい? あんたやっぱり優しいね。偶にはこんな見世が吉原にもあったことを思い出しておくれよ。あたしらへの供養だと思ってさ」