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短編集43(過去作品)

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 踵を返そうとするが、足が動かない。昔教科書に出ていた海が中央から割れて中にできた道を民衆が渡っている姿。まさしくモーゼの奇跡を見ているようである。
 海が割れるのではないかとまで思っているのだから、少々のことでは驚かないだろう。感覚も麻痺してしまって水平線の端が見えてくるかのようだった。
 その時である。目の前に見たこともないようなものすごい閃光が走った。間違いなくあれは閃光だったはずだ。先ほどと違い、水平線の端がハッキリと見えて、手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど近く、閃光によって作られた影は、部屋の中で見たのと変わらないほどであったことに気がついていた。
――そんなバカな――
 自分の中で音を立てて何か一つの大きなものが砕けてくるようだった。砕けたものは自分の中の理性なのか、教養なのか、自分でも分からない。
――気を失ってしまいそうだ――
 と感じるのが早いか、閃光とともに全体を映し出されたはずの光景がもう二度と見ることができないほどの暗黒に変わっていた。
――失明したのだろうか? 二度と私に光は戻ってこないのだろうか――
 薄れゆく意識の中で感じていた。目が見えないことの恐怖よりも、今まで見てきたものが失明とともに記憶まですべて抹消されてしまいそうで、そっちの方が恐ろしかった。本当であれば見えなくなることが一番恐ろしく、永遠の苦しみとして背負っていかなければならないことを百も承知のくせに、どうして瞼の奥に残った過去の記憶が消えてしまうことの方が恐ろしいと感じるのだろう。
――失明という本当の恐ろしさを知らないからかも知れない――
 とも感じたが、
――知っているからこそ、それ以上の恐ろしさに目が行ってしまって、誰も見えていなかったものが見えてくるのかも知れない――
 と感じた。
 恐怖が迫り来る瞬間というのは、他の人が想像しているよりも遥かに先を、当の本人は見ているのかも知れない。そんな気持ちが頭を掠めていきながら、閃光でできた影の中に吸い込まれていく自分を想像していた。恐怖が襲ってくる時というのは、本当にその時になってみなければ分かるものではない。初めて感じるはずなのに、今さら思い知ったかのように感じている。どうしてなのか分かるはずもなかった。

 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。坂下三郎が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。心配そうに覗き込む女性、彼女は一体誰なのだろう?
「大丈夫なんですか?」
「ええ、意識は徐々に取り戻してきているみたいなので、先生も気がつくのは時間の問題だろうっておっしゃってますわ」
 心配そうに覗き込んでいた女性の顔が消えると、そばで二人の女性の会話が聞こえた。一人は今の女性であろう。もう一人は会話の様子から看護婦であることは間違いなさそうだ。
 顔をそちらに向けたいのは山々なのだが、がっちりと固定されていて動かすことができない。少しでも力を入れると首に焼けるような激痛が走ることから、首の骨がまともでないことはハッキリしている。下手をすれば折れているのかも知れないと思うほどだ。
 首だけではない。身体のいたるところが固定されているようで動かそうとすると激痛が走る。どうやら身体を動かそうとすること自体、無駄な抵抗のようである。
 意識は次第にしっかりしてくる。話をしようと思えばできるであろうが、身体が動かないのでは、喋ることも億劫になってくる。しばらくこの状態に慣れるまではあまり余計なことを考えない方がよさそうだ。
 天井だけを見ている生活、今までならこれほど退屈で死にそうな思いはなかっただろうが、今はそんなことはない。過去や未来などどうでもいいとまで感じるほど、自分の身体が動かせないことに対して苛立ちを覚えないようにしないといけなかった。
――俺にこんな冷静な気持ちになれる一面があったなんて――
 不思議で仕方がない。
 食事だって、トイレだって自分一人でできるものではない。看護婦がついていてくれるであろうが、それにしても一体何があったのだろう。記憶の中で、ここまでの大怪我をするようなことがあったとは思えない。どこまでが現実で、どこからが夢なのか、今は意識が交錯していて分からなかった。
 だが、どうもまわりの人間は、坂下が意識を取り戻していることに気付いていないようだ。
 医者が定期的に見回ってくれているようだが、見回りも三回目、四回目と続いているのに、
「大丈夫、だいぶ意識がしっかりしてきているので、目が覚めるのは時間の問題だね」
 とまるでバカの一つ覚えだ。本人からしてみれば、
――目はとっくに覚めているさ。一体どこを診ているんだ――
 と言いたい。それにしても一日にどれだけの見回りなのだろう。数時間に一回くらいだろうという気はしているが、医者の顔は至って冷静で、目が覚めていないのにこれだけ冷静になれるということは、ここに運ばれてきた時というのが、どれほど悲惨な状況だったかということを表している。そのことを聞いてみたかった。
 目が覚めてから一日は経っているのだろうか。首を動かせないので、見えるのは天井の蛍光灯だけである。窓ガラスが見えるわけではないので、昼なのか夜なのかも分からない。それにしても、ここが病室であることは見当がつくが、一体どんな部屋なのだろう。他に人の声が聞こえないので個室であることは間違いない。もっとも意識不明の人間を大部屋に入れるはずはないだろう。身体は動かすことができないほど痛んでいるようだが、頭はいたって健康で、神経を頭に集中できる分、結構いろいろな発想が生まれてくるようだ。
 また女性二人の声が聞こえてきた。一人は先ほどの人ではない。どうやら看護婦同士の会話のようだった。
「それにしても、あの患者さん、大丈夫なのかしらね。私少し不安なのよ」
「どうして?」
「だって、伊崎先生の表情を見ていると、医者としての顔というよりも教授としての顔のような気がするの。何か目がキラキラ輝いていて……」
 伊崎先生というのは、きっと坂下の主治医であろう。バカの一つ覚えだと思っている先生のことだ。
「あなたは、伊崎教授のことが気に入っているんでしょう? だからそんな風に見えるのかしら」
「やだ、恥ずかしい。でもね、伊崎先生のあんな顔、一緒にまわっていて見たことないもの」
 一体どんな顔をしているというのだろう。いつも覗き込んでいる顔は、蛍光灯から逆光になるためにハッキリとその表情を確認することはできない。バカの一つ覚えという印象しかないのに、どうやら、それだけではないようだ。
「あの患者さんを心配しているようだけど、どうしてなの?」
 坂下のことを言っているんだろう。
「私はあの人の意識が戻らないことを最初心配していたんだけど、伊崎先生はいつも同じことしか言わないでしょう?」
「そうね、大丈夫だからとしか言わないわね。それに続く言葉もいつも一緒」
「でしょう。私には先生がいつも同じ表情で同じ言葉を言っていることが不安なのよ。何かを隠しているような気がして仕方がないの」
「隠しているって患者さんのこと?」
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次