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駆け抜けるもの

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 キスしてしまった!
 しかも夫以外の人と……。その人とは仕事での付き合いは長かったが、一度でもその気になったことなんて無かった。それなのに気がつけばクスをしていた。
 思えばキスなんて久しぶりで、この前のことなんか何時したのか思い出せない。ファーストキスのことなら覚えているのだけど、夫と最後にキスした日なぞ思い出せない。
 尤もキスどころか、夫婦の営みさえご無沙汰している。どうやら夫は、私が子供を産んだあたりから、私を「おんな」ではなく「母親」として見始めたようで、しかも「乳臭い」とか言って敬遠するようになってしまった。
 私も、それなら面倒くさくなくて良いわ、と考えてそのままにして来た。だからお互い様なのだから夫ばかりを責められない。夫は私が授乳している姿を見ても何も思わないらしい。平時より1.5倍は大きく張った乳房を見ても何も思わないらしい。まあ以前から人並みぐらいはあったから、今更なのかも知れないけどね。
 夫婦の営みは全く無くなった訳ではなく、それを忘れた頃にしてはいた。まるで盆暮れの行事のように……。
 でもそれもここ数年は無い。だから二番目の子が出来る訳もなく、可哀想だがウチの子は一人っ子になってしまった。そのことを夫に言うと、
「俺も一人っ子だから」
 そんな答えが返って来た。駄目じゃん。だから兄弟が欲しいとか思わなかったのか尋ねたら
「そうだな……小さい頃だけだな。大きくなってからは思ったこと無いな。大丈夫、すぐ慣れるから」
 慣れる慣れないの問題では無いと言ったが駄目だった。だから二番目の子は諦めた。そんな矢先だった。私は産休が明けると職場に復帰した。情報処理の分野で会社は私を必要としてくれていたからだ。夫だけの収入では心許ない事もあった。
 以前からコンビを組んでいた彼と再びコンビを組んだ。仕事の相性としては最高でお互いをリスペクトしていて、お互いの先を読みベストな進路を採用していた。だから男女の感情なんて入り込む余地なぞ無かったのだ。現に彼は妻子があり良く写真を見せてくれていた。
 その日は仕事の都合で残業することになってしまった。私は夫に
『残業で遅くなるから祐介を保育園に迎えに行って欲しい』
 と連絡を入れた。夫の会社は基本的に残業の無い仕事なのでOKの返事を貰った。だから安心して仕事に打ち込んでいた時だった。
「腹減らないか、何か買って来ようか?」
 彼のその言葉に時間を確認すると、我が家での夕食の時間が過ぎていた。
「もうこんな時間なんだ」
「ああ、何が良い?」
「コンビニ?」
「そうだね」
「サンドイッチか何かで良いわ。コーヒーなら廊下の自販機で挽きたてが飲めるし」
「そうだな。じゃ買って来るよ。量は?」
「小さなパックなら二個で大きなのなら一個で良いわ」
「判った。じゃ行って来る」
 ドアを締めて行く彼を見送りながら、無意識に夫と比べていた。私の母は県立高校の数学の教師で、私を産んだ後半年の産休で職場に復帰した。バリバリのキャリアウーマンの走りのような人で私にも同じ事を求めた。
 それに従った理由では無かったが、私も産休が明けると直ぐに復帰した。会社もそれを歓迎してくれた……とその時は思った。
 それが間違いでは無かったが、それ以上でも無かったのは復帰して判った。要するに会社とはそういうものだと理解した。
 廊下に出て自販機でコーヒーを買う。私はレギュラーで無糖。ついでに彼の分も買う。彼はアメリカンが好みだった。二杯を煎れて戻ると直ぐに彼が帰って来た。まあ、その時間を見計らって買いに行ったのだが……。
「BLTサンド買って来たよ確か好きだったよね」
「ありがとう。よく覚えていたわね」
「何年付き合っていると思うんだい。旦那より長いんだぜ。まあ、俺の方もそうだけどな」
 そうなのだ彼とコンビを組んだ年数は夫婦の年月を消費した月日を上回る。それは彼も同じだと言ったのだ。
 隣に座りお互いのPCのデータを確認しながらサンドイッチを口にしてコーヒーで流し込む。彼が私のPCのデーターを覗き込み、やはり買って来たお握りを頬張りながらアメリカンコーヒーで流し込んで行く。その様を見て、彼と自分は似たもの同士だと感じた。こんな事は今まで感じた事は無かった。何故だろうか?
 お互い配偶者と子供を家に残してこんな都心のビルの一室でPCとニラメッコしている。客観的に見れば滑稽だ。でもの対価で生計を立てている。
「このデータだけど」
 彼はそう言って私のPCに表示されているグラフを指差した
「どうかした?」
「昨年より下がり方が激しい気がするんだけどな」
「そう?」
 私はそう言って彼を頬がくっつく程に近づいてPCの画面を眺める。彼はコーヒーを飲み終わってテーブルに紙コップを置いた。その時だった。彼の手が私の肩に伸びて私を抱いた。私も右手を伸ばして彼の肩を抱く。そしてお互いに顔を正面にして唇を重ね合った。お互いの舌が絡み合い、何かが二人の間を駆け抜けて行く。何か大事で大切なものが二人の間を走って行くのだ。物凄いスピードで走って行く。何かが満たされて行く。それが何なのか判らない。でもこれからのあたしに必要なものなのだろうとは想像がつく。多分、それは彼も同じだと直感した。やがて唇が離れた
「ごめん。そんなつもりじゃ無かったんだけど。何か衝動に駆られて」
「ううん。私も同じだったから」
「何なのだろう。あれ」
「うん。よくわからないけど、きっとお互いに足りなかったものだと思う。確信は無いけど」
「そうなのかな」
 その時はそれで済んだ。それ以来彼とはキスをしていない。変わったことと言えば、あれから、矢鱈に夫が私を求める事が多くなった。
「どうしたの? ご無沙汰でさっぱりだったのに」
「うん。ここ所、物凄く君を抱きたいんだ。自分でも驚いている」
 週末は必ずだし、平日でも仕事が早く終わった日などは、子供を寝かしつけると早々とベッドに潜り込む
「授乳してた時さ、物凄く大きく張っていたじゃない」
「あら関心ない感じだったじゃない」
「あの時は母性を感じてたんだけど、今思えばもっと触っておけば良かったと思ってさ」
「じゃあまた大きくさせる?」
「うん」
 その後私は第二子を身ごもった。そうしたら彼の奥さんも子供を身ごもったそうだ。きっとお互いの夫婦の寝室で同じような会話がなされたのだと思っている。

                                              <了>
作品名:駆け抜けるもの 作家名:まんぼう