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とーとろじい
とーとろじい
novelistID. 63052
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磨き残しのある想像の光景たち

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6.1 引きこもり



少し離れた場所に私があり、そこへ近づくために諸々の手続きをしているところだった。

記憶が正しければ、私は今、自分の部屋にいるはずだ。暗い部屋に閉じこもって、スマホのメモ帳にこの文章を書き込んでいるはずだ。硬い電子機器の平板に、指を押しつけて打ち込んでいるはずだ。

しかし、事実は違うらしい。

おととい、部屋の前へ夕食のプレートを置きにきた、50代の、もう顔も覚えていない母がこう言った。

「スーパーに行ったら、あんたが豆腐の前で難しい顔して立っとったよ」

……不思議な話だ。

私が最後に外へ出たのは、もう何年も前になる。永遠にここに閉じこもって、一生を終えようとしているこの私だ。それなのになぜスーパーで生命を延長しようとしている。
難しい顔……母は私の顔を覚えているのだろうか。だが、それよりも、その私の身体は、一体どうしてそこに位置していたのだろうか。ここにしか位置してはいけないこの身体が、どこかへ無承諾に貸し出されていたなんてことはあり得ない。それは一般の条理からしてそうなのだ。この私の寝ている間に、身体をスーパーまで運搬し、豆腐のコーナーで表情をいじくって、難しい顔をさせた人間がいるなら別だ。しかしそんなお節介な人間は……いるとすれば、万年刑務所に収まる他ない。常軌を逸した遊び心は、他者危害の原則に馴染まない。第一、そんな人間を野放しにすれば国土が安全ではない。人を無許可で動かしていいのは、寝返りを打たせる、夜の脳髄ぐらいだ。
ともあれ、私の方での聞き違い、という線もあるわけだった。つまり、「あんたが」の部分が実際には「アンナが」だった可能性もある。「アンナ」というご近所のお姉さんで、私の知っている人が、豆腐の前で難しい顔をしていたことを知らせようとしたのかもしれない。
勿論、私はそんな人物知らないのだが……。

ご近所の知り合い、というと、思い出されるのは一人のおばさん以外にない。谷町さんという、今はもう、身元不明の……そして当時は白髪混じりの、薄っすら風通しの良い頭髪をもった、あのおばさんだ。
昔、学校の登下校の折に、しばしばこう言われたものだ。

「○×くんは挨拶のできるええ子やねぇ」

小学生の私は、確かに挨拶だけは返していた。そしてそれが唯一のご近所付き合いだったのだ。
谷町さんは恐らく、私を評するにその一言しか出てこなかったに違いない。凡庸で無口な子には、挨拶くらいしか褒めるところがないのだ。だから世間の挨拶運動というのは、どんな子にも自尊感情の保養となる機会を作ってやろうという、感心すべき思いやりがその底流に存している。小学生の私はその恩恵を被ったひとりなのだ。
谷町さんは私に挨拶するが、挨拶以上の話をされると、私は応えられずにハニカんで流したものだった。だから谷町さんにとって私という存在は、挨拶の時にだけ健全になる、やや社交性に難ありの男子小学生というわけだった。勿論これは、約めて表現した場合である。谷町さんにとっての私、の印象をすべて描写できるはずがない。私は谷町さんではないからだ。しかしよくよく考えてみると、谷町さんもまた、私に対する印象のすべてを、表現できるとは限らないかもしれない。
私も谷町さんも、それぞれお互いの印象を持っていたはずなのだが、しかし当時のその印象を言葉であれその他の表現方法であれ、うまく再現する術を実は持っていないのかもしれない。
となると、小学生の私はどこへ行ってしまったのか。当時の私を記述する方法とは一体。当時の印象を再現し、表現してみせたところで、それが一部の嘘も混じってないと言い切れるのか。現在による干渉なしに再現できるのか、等々。
なんだか宙ぶらりんだ。思い出の中の映像。それもなんだか覚束ない。
私が社会で生活していた時は、自分のことを覚えてくれている人間を自ずから求めたりはしなかったが、引きこもりの今となってはそういう存在が恋しい。要するに確証が欲しいわけだ。実在に関しての……、私に記憶を割いてくれている、生きた人間が……。

そう考えると、私という存在は本当に希薄らしい。
母による一日二度の食事の配給が途絶えたならば、母は私を見捨てたことになる。いや、そもそもの話、母は私がこの部屋にいることを信じているのだろうか。母にあるのは、食事を持ってくるという習慣の作業だけだ。この作業も、もう何年繰り返されたかわからない。母も今は、人間の体を持った私に捧げているのではなく、茶色いドアに食事を捧げているのかもしれない。お仏壇にバナナを供えるようなものだ。無を前に行為することにより、有意味性が生まれてしまう。
或いは、意味を発見したくてたまらないのだ。自分の行為が意義のあることだと信じたい、あの感傷的な願望。徒労の埋め合わせ。そうした心情が母を取り巻いていてもおかしくはない。豆腐の前で見かけた私も、この希望的な心情に基づいて創り出された幻像かもしれない。
そうすると、私は生きながらして祖霊になってしまったということか。つまりこの部屋は仮想的な墓石であって、参る者がおり、私は骨として実在するわけでも、絶対無になるわけでもなく、幽霊としての地位に知らず知らず配されていたというわけだ。

知らず知らずのうちに……。
母の願いを原動力にして……。

幽霊であるからして、スーパーに出没しようと、会社の面接会場で順番待ちをしていようと、ご近所の谷町さんの頭皮を観察しようと、どんと自由自在なわけだ。
こうやって思考を走らせ、言葉の世界を超えて実在の世界を垣間見るとき、既に私は随分幽霊らしいことをやっているじゃないか。谷町さんに触れようと思えば、文字を紡いで登場させ、ガリガリの人差し指で触れることができるし、ドアの前へ母が食事を置きにくる場面へと一足跳びに飛ぶこともできてしまう。ご飯にかぶりつくこともできないわけではない。この文字と想像の世界では。
この世界だけが私に残されている。
文字とイメージによる歩行、アクセス、ランニング、サーチ、そうした操作で繰り広げられる世界。私はその間を彷徨うしかない。(続く)