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のしろ雅子
のしろ雅子
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未生怨(みしょうおん)上巻

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第七章 祈之九歳の頃3



 その日正夫は、ベットに上がると母に添い寝するように横たわり、母の顔を撫で見つめた。ふっくらと穏やかだと思った母の表情は薬の副作用で、より症状は深い進行を思わせた。

 母が正夫の手を引き、無表情な顔で国道を彷徨い歩くのを思い出していた。
 出稼ぎに行った父が帰って来なかったのは正夫が三歳の時で、その年は冬の出稼ぎに出るようになって三回目の冬だった。いつもよりうんと寒く、雪が降り出すのも早かった。いつもは近県のビルの建築現場の手伝いが多かったが、その年は東京に地下鉄の大工事が始まり全国から人夫が集められ正夫の父もその中にいた。遠すぎると不安がる母に、
「心配するな、いっぱい稼いで帰ってくるよ」
父は母の肩を抱き寄せて笑った。男らしく優しい父であった。 
「母ちゃんを頼むよ、お前は男なんだから…」
その分厚い胸に正夫を抱き上げ頬摺り寄せた。
その日父は母と正夫に大きく手を振り、同じ現場に向かう仲間達と村を出て行った
それが、母と正夫の父を見る最後の姿だった。

 
 雪解けて林業が活気付き製材所の音が鳴り渡る頃、村の男達は出稼ぎ先を引き上げ大きな荷物を持って家族の待つ村へと帰ってきた。父と東京に出稼ぎに出た数人の男達が全て帰ってきても父の姿は無かった。
「まだ少し残って仕事するって言ってたよ、ほんでもって一人残ったよ…」
 と一緒の仲間は母に伝えたが母の不安は日一日と募り、母は日に何度も父の置いていった連絡先に電話を入れたが要領を得ず
「まあ、黙って待っててごらん、そのうちぶらっと帰ってくるよ」
 と言う人もいたが、父の行方はそれきり知れず、場末のバーの女に夢中になってそのまま二人で消えたとか、博打の借金で行方をくらませたとか、噂話がまことしやかに流れ「所詮、流れもんは流れもんさ…」と陰口が聞こえ母を苦しめた。
 母に連れられ東京に父を捜しに出かけたが大した情報は見つからず捜索願を警察に出して帰ってきた。新幹線の東京駅のホームから眺められるビルの谷間に真っ赤な口を開け父を飲み込んだ怪物が潜んでいるように思われた。

 そして一年が過ぎ、必ず帰って来ると待つ母の胸に四角い箱に入れられて変わり果てた姿で父は帰ってきた。山谷の近くの公園で行倒れていたという父、頭に鈍器で殴られたような後があったと母は聞かされたが、結局昏倒した時の傷と言う事で事故扱いとなり母に抱かれ無言の帰郷をした。二年の間父の身の上に何が起きたのか、東京と言う虚空の街に父は何を見たのだろうか、母は一言、
「お父ちゃんだよ…」
 と正夫に呟いてそれきり父の話はしなかった。母は暫く鬱症状に悩まされ、そしてぼんやりと見えない何かを見つめる様になった。時として楽しそうに、時として哀しそうに表情はくるくると変わった。その頃から母は正夫を連れてバスの停留所辺りを徘徊する様になり、その表情は魂の抜けた様で目は空ろであった。バスがつくと乗降客を見つめ、帰る筈無い夫を捜し、待ち続けている様であった。段々と徘徊は度を増し、帰る家を見失うほどで
「母ちゃん…帰ろう…ねえ、帰ろう」
 と最後は正夫が泣き出し、見兼ねた近所の人に連れ帰られた。

「まーちゃん…祈の事見て…」
 母と添い寝する正夫に焼きもちを焼いて祈之は間に割り込んで来て正夫に抱き付いて来た。
「ほら…祈、母ちゃん見てごらん、笑ってるよ」
 祈之を母のほうに向かせると、腕の中に抱き締め、なお母を見つめた。今でも母は父を待ち続けているに違いなかった。幼子の様にあどけなく笑う母の頭をそつと撫でると、祈之も真似てそっと頭に触れ
「母ちゃん…」と呼んだ。

 その日、祈之を連れて正夫は自分の生まれ育った家を見に行った。
 病院のある町からバスで4,50分程長いトンネルを越えると山の中にその村はあった。停留所近くの集落を外れ二十分ほど山道を行くと点在する民家が抜け落ちるように途絶えたその奥に正夫の家はあった。そのさきは獣道の様な登山道へと続いていた。
 正夫は懐かしげに暫く周りを見回していたが祈之に、にこっと笑いかけ指差し、今は伯母夫婦の管理下にある家を見つめた。付近一帯は大分様変わりし新しい様式に建て替えた家が並んでいたが、より山間に離れて建つこの家は、雪に備えて柱こそ太かったが板張りの小さな家で、庭に建つ薪小屋を大きくしたような粗末な家であった。何処からか流れてきて木の伐採などの手伝いをしていた父と恋愛関係に陥った母のお腹に正夫が宿り、慌ててここに所帯を持ったと伯母に聞いたことがあった。
「ここでまーちゃん生まれたの?…」
 祈之の問いに頷きながら、庭に面した縁側に腰を下ろした。横に寄り添うように座る祈之の肩に手を回しながら、けして広くない庭を見回した。秋になると柿の実が並び、冬には大根を吊るし、白菜を茣蓙の上に並べて冬支度に入る。ここにそんな生活が平凡に平和に営まれていた…。ふっと正夫は祈之を離して立ち上がると、生え茂った雑草の中に埋もれるように置かれた石を見つけ、この丸みといい大きさといい鬼の面妖の様な奇妙な形は母の使っていた漬物の置石だと思った。それは紛れも無く正夫の忘れられた過去が形になって転がっていた。正夫はそれを抱え上げると頬を摺り寄せた…。
「正夫!危ないよ」
飛んでくる母の姿が見えた。裸足でちょこちょこ飛び出す正夫を追いかけて、逃げ回る正夫を掴まえて抱き上げると
「まったくこの子は!」
 と首に巻いたタオルで足のゴミを払い優しい顔で「め!」とし、そして必ず浴びるほど頬にキスを繰り返し愛しそうに正夫を見つめた。
「いいよ、いいよ自由にしてやれよ」
 母を後から抱き締める父がいた。まだ二十代半ばの若い夫婦で、二人が慈しみ合う姿も薄っすらと思い出せた。抱き締められるように父を感じ母を感じる事ができた。全てが蜃気楼のように消えてしまった…。正夫は血が滲む程唇を噛み締めた。
「まーちゃん…」
 その声で我に返ると不安げに見つめる祈之がいた。正夫の頬にいつの間にか涙が伝って落ちた。それを見て祈之も泣き出した。祈之は何を感じたのか
「まーちゃんには、祈がいるでしょ?そばにいつもいるよ」
その大人っぽい言い方に正夫は思わず笑い、溢れる涙を手の甲で拭うと祈之の頭を撫で抱き締め、指で祈之の涙を拭った。涙で睫を濡らした二人が見つめあい、睨めっこする様に顔をくっ付けると半分泣きながら笑った。寂しさを共有し、捨てられた子犬の様に二人は愛に飢え、その渇きを満たすように寄り添った。
 その後二人は今泣いた事を忘れるように家の周りを探検してまわった。やがて登山道に入り込み、3キロ程の道程を歩き幻の滝を見に行った。歩きにくい山道を上がったり下がったりしながら “もう…歩きたくない”と祈之が愚図りだした時、水音が聞こえ、山の谷間に水飛沫をあげ流れ落ちる滝が出現した。滝は木々に覆われた山間へ奥深く、有り余る水量を轟かせ遥か下方に煙る空間へと流れ落ちていた。
「わあー!下が見えない、凄ーい!地球の中まで落ちてるよ」