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第七章 星影の境界線で

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 彼女は威圧の瞳でシュアンを抑えると、ひとつに束ねられた波打つ髪を翻し、ローヤンに向き合った。白衣の背中が凛と、無影灯を反射する。
「緋扇さんの先輩を、必ず元に戻すと約束してください。代わりに、私は『あなた』のものになります」
 シュアンは「な……っ!?」と言ったきり絶句し、ローヤンが複雑な顔で唸りを上げる。
「その警察隊員のために、君がそう言ったのだと思うと、腹わたが煮えくり返るね。……だが、君はまた、鋭いところを突いてきた……」
「ええ。お父様ではなく、『あなた』です。『あなた』が望むなら、私はお父様の殺害でもしてみせましょう」
 今まで饒舌に喋っていたローヤンが押し黙る。
 ローヤン――否、目の前にいる『彼』にとって、〈蝿(ムスカ)〉は、いわば『本体』。敵意、対抗意識、競争心――そういったものが、ないまぜになった感情が『彼』にはある。
「ミンウェイ! なんで、ここであんたが出てくるんだよ!? 関係ないだろ!」
 やっとのことで口を開いたシュアンが、ミンウェイの肩を掴み、無理やり自分の方へ向かせた。
「緋扇さん、私は〈蝿(ムスカ)〉の娘なんです。見ないふりなどできません。――そして、可能性はゼロではないんです」
「馬鹿か、あんた! お人好しすぎだろ。あんたなんか、逆に喰われて終わりだ!」
 シュアンとミンウェイの視線が交錯する。
 綺麗な女だと思った。
 切れ長の瞳に、通った鼻筋。艶(つや)めく唇。豊満な肉体は、しなやかな筋肉に覆われ何ひとつ無駄はない。――〈七つの大罪〉の最高傑作の血を持つ女。
 闇の中で生きてきたくせに、光の存在を信じている。
 綺麗すぎて、優しすぎて……愚かだ。
「ミンウェイ、あんたの気持ちはありがたいが、これはもう、詰んでいるのさ。だって、〈蝿(ムスカ)〉と同じ思考を持つ『そいつ』は、約束を守るような奴じゃないだろう?」
 言いなりになったら、骨の髄までしゃぶり尽くされる。そんな現実をシュアンは見続けてきた。
 どんな正義も、喰われていく。
 だからシュアンは、信じることをやめた。
 だから無情な狂犬になって、愚か者たちが喰われる前に、喰い散らすようになった。
「約束しても無駄だって、あんたが一番よく、知っているはずだ」
 ミンウェイは、何も答えられなかった。
 もし、ここで彼女が何か言ったのなら、シュアンの心はひるんだのかもしれない。
 けれど、彼女は目を伏せただけだった。
 シュアンはミンウェイを退け、ローヤンに銃口を向ける。
「やめろ……!」
 シュアンの暗い炎を前にして、ローヤンが初めて恐怖に声を引きつらせた。
「私を殺して、なんになるんだ?」
「悪魔のくせに、先輩の姿をしているのが目障りだ」
「まだ、元に戻る可能性が……!」
「そんな糞みたいなちっぽけな可能性にかけるほど、俺はおめでたくないのさ」
 ローヤンの右手の甲に、ふたつ並んだ小さな黒子(ほくろ)が見える。新人だったシュアンに、拳銃の構え方を教えた手だった。――よく覚えている。
 こめかみに薄っすらと残る古傷は、凶賊(ダリジィン)の凶刃からシュアンを庇ったときのものだ。――忘れるわけがない。
 目深な制帽の下で、シュアンの瞳が揺らぐ。それをこらえるように、彼は奥歯を噛み締めた。
 引き金に掛けられたシュアンの指――死の淵を目前にした悪魔の金切り声が響く。 
「私の体は、あなたの大切な先輩なんですよ?」
「あんたは俺の先輩なんかじゃねぇ。〈蝿(ムスカ)〉という悪魔だ」
 振り切るように、シュアンは言い捨てた。
「緋扇さん……」
 ミンウェイが、シュアンの名を呟いた。
 また止める気かと、辟易としかけたシュアンの目前を、銀色の光が走った。無影灯の光を跳ね返す、輝く残像。細く長い指先が、ワゴンに乗せてあったはずのメスを握っていた。
「私は〈ベラドンナ〉という名で、暗殺を生業にしていました」
 ミンウェイが凪いだ瞳でシュアンを見つめた。人を殺すために、心を殺した少女の面影がそこにあった。
「私が請け負います」
 ぞくりとするほど綺麗な顔の中で、彼女の赤い唇が死神の鎌の形に動いた。
 彼女は手の中でメスを踊らせ、ローヤンの喉元に切っ先を向けた。
「……違うだろ、ミンウェイ。今のあんたは〈ベラドンナ〉って奴じゃないだろ?」
 どこまでも優しい愚か者。精神が父親である責任と、肉体が先輩である不幸は、彼女のせいではない。 
 シュアンは、左手で抱きすくめるようにミンウェイの腰を引き寄せた。
「警察隊がこの屋敷を囲んだとき、一族を守るためにバルコニーから飛び降りてきたあんたは、格好よかったぜ? あれが今のあんただろ?」
「緋扇さん……」
「あんた、『緋扇さん』ばっかだな。俺の名前は『シュアン』だ。覚えろ」
 そう言って、シュアンは口元を締めた。
「これは俺のけじめだ。――邪魔すんな」
 迷いはない。
 愛しい愚か者たちのために、シュアンは成すべきことを成すのだ。
「待て、まだこの肉体が元に戻る可能性が……!」
 血相を変えて叫ぶ悪魔に、シュアンは冷たく言い放つ。
「悪魔の戯言は、もうたくさんだ」

『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』

 先輩は秋に結婚するのだと、風の噂で聞いた――。

 撃鉄を起こす音が、淡い緑色の壁に反射した。
 そして――。
 …………銃声……。

 シュアンの右手が、力なく降ろされた。
 拳銃が指から滑り落ち、音を立てて床を打ちつけた。銃口から、ゆらりと薄い煙が上がる。
 左手がミンウェイの肩を捕らえ、すがるように抱きしめた。
 ミンウェイの手も、そっとシュアンの背に回る。
 互いの鼓動が感じられた。
 体温には人を惑わす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己(われ)で、どこからが他者(かれ)であるかの境界線を不明瞭にする。
 感情が混じり合い、溶け合い、分かち合っていく。
 彼(われ)と彼女(かれ)の間には、情も、絆も――ましてや愛など存在しない。
 それでも、熱を求めずにはいられなかった。
 ひとりきりで抱えるには、重すぎる感情であったから……。

 ――先輩、俺、……本当はずっと、あんたと一緒に馬鹿な夢を追っていたかったんですよ……。


作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN