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第六章 飛翔の羅針図を

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 透明な涙があふれ出し、メイシアの頬に光の軌跡を描きながら流れ落ちる。
 はっとして、ルイフォンは慌てて口を開いた。
「……な、なんで、駄目なんだよ!?」
 望んでいるのなら、何故、差し伸べた手を素直に取らないのだ? 混乱する。訳が分からない。
「私は藤咲の家で、家柄の合った殿方に嫁ぐか……、鷹刀のイーレオ様のもので、いずれ、そ、その、多くのお客さんのお相手をするって、お約束をしている身で……!」
「だから、それを振り切れって!」
 メイシアが唇を噛んだ。
 目をそらし、肩を震わせながら、苦しげな声を絞り出す。
「……だって、…………だって! 振り切ったとしても、ルイフォンにはスーリンさんがいるじゃない!」
「……は?」
「私が欲しいのは『自由』じゃない! ……『ルイフォン』なの!」
 籠の外を知った雛鳥の、精一杯の告白。飾らない無垢な言葉。
「だから、……私は、これ以上を望んじゃ駄目……、もう充分に幸せな思い出を貰った……。私、ルイフォンとスーリンさんが仲良くしているところ、見たくない……。――独り占めしたい。……でも……私だけのルイフォンにならないのなら…………要らないの」
 また、ひと筋、メイシアの頬を涙が伝った。
 ルイフォンは、どきりとした。
 彼女の泣き顔は何度も見ているけれど、これほど重い涙は初めてだった。
「……俺は馬鹿だ」
 彼は癖のある前髪を掻き上げた。そして、その手で自らの頭を叩く。
 鳥籠の小鳥は、すべてを与えられてきた。与えられないものは、存在しないものと信じてきた。
 そんな小鳥が初めて欲したもの――。
「『俺のところに来い』じゃねぇや……」
 くだらない格好つけだった。雛鳥の彼女に言うべき言葉は、そんな言葉ではなかった。
「俺は、お前が好きなんだ。――俺が好きなのは、お前だけだ」
 メイシアの瞳が大きく見開かれ、更に、ひと筋の涙がこぼれる。
「スーリンさんは……?」
「スーリンは恩人だけど、恋人じゃない」
「え……?」
「母さんが死んだあと、俺がシャオリエのところに預けられたことは言ったよな。スーリンにはそのときに世話になった。記憶があやふやなんだが、あのころの俺は放っておけない状態だったらしい」
 ルイフォンは姿勢を正した。
 自分を見る、濡れた黒曜石の瞳に惹きつけられる。いつだって彼女は懸命で、魂の輝きが彼を魅了した。
「そばに居てほしい。お前を藤咲家に帰したくない。親父のものにもしたくない。だから、これは俺の我儘だ。全部振り切って――俺のそばに居てほしい」
 まっすぐにメイシアだけを見つめて、ルイフォンは、はっきりと告げた。
 曇りない、透き通った言葉が、ふたりだけの空間を切り取った。それは、まるで時が止まったかのような世界――。
 不意に、メイシアの瞳から朝露のような涙が輝いた。
「はい……!」
 固く閉じられていた蕾がほころび、ふわりと広がるような笑顔だった。
 ルイフォンは立ち上がり、彼女の元へ寄る。赤らんだ彼女の顔を見つめながら顎に指を掛け、桜色の唇に口づけた。
「芝居じゃない、本物のキス。一瞬じゃなくて、一生の恋人だ」
 テノールの息が掛かり、メイシアの心臓が高鳴る。夢見心地に上気する体が、現実として、ふわりと浮いた。
「え?」
 ルイフォンが、メイシアを抱き上げていた。
「ルイフォン?」
 彼は愛しそうに彼女の黒髪に頬を寄せると、彼女をしっかりと胸の中に抱きかかえ、ゆっくりと歩き出す。細身だが、しっかりとした筋肉が大切に大切に彼女を守り、危なげなく運んでいく。
 そして、その先は――。
「どこに行くの?」
「寝室」
「え!? あの、あのっ!?」
 彼女は真っ赤になって慌てふためき、手を振り上げようとして……果たしてそれは正しい行為なのか、大真面目に悩んで動きを止める。
 密着した体から、彼は彼女の鼓動が早まるのを感じた。
 続き部屋の扉を開き、ベッドを目前にすると、彼は彼女の全身が強張るのが感じた。それでも彼女は無言で、身じろぎせずに彼の腕の中に収まっている。
 そんな彼女を、彼は柔らかな毛布の上に、そっと下ろした。彼女の体重を捉えたスプリングが、小さな呻きを漏らす。
 長い黒髪が、洗いたての真っ白なシーツに広がり、艶(つや)めいた。白磁の肌が、ほんのりと桜色を帯び、ほのかに香る。
 彼女は、ただ真上を見ていた。
 緊張した目で、けれど、まっすぐに彼を見ていた。
 ルイフォンは……笑いを堪えることができなかった。
「ルイフォン!?」
 腹を抱えて笑い転げる彼に、狼狽した彼女の声が裏返る。
「『俺はこのあと仮眠をとる』って言っただろ? 膝枕を所望する」
「え、あ! ああ、そうですよね!」
 ……あからさまに、ほっとされると、それはそれで傷つく。
 残念そうに苦笑するルイフォンに、メイシアは、ささっと上半身を起こし、「どうぞ」と膝を差し出した。
 彼は、衣服に包まれた柔らかそうな太腿をじっと見て、しばし考え込んだ。
「やっぱ、こっちのほうがいいや」
 ルイフォンがベッドに上がり、ぎしり、とマットが沈む。そのはずみでメイシアの体が少し傾くのを、彼の両腕がしっかりと包み込んだ。彼はそのまま、彼女を抱きかかえるように体を転がし、ベッドに倒れ込んだ。
「きゃっ!?」
「添い寝」
 そう言ってルイフォンは、メイシアをしっかりと胸に収めた。彼女の体が、かぁっと熱を持つ。柔らかな肉体が、早めの呼吸に合わせて蠢いていた。湿った息が胸元に掛かり、ぞくぞくする。
 鼻先をかすめる温かさ。芳(かぐわ)しいだけでない、生きている香り。
 彼女に気づかれないように、こっそり唇でこめかみに触れると、血液の流れる音が響いてきた。羊水に揺蕩(たゆた)うような心地とは、これに違いないと肌で思う。

 彼女に居場所を与えようと思った。
 けれど、彼もまた居場所を貰ったのだと、全身で感じていた。

 そうしてルイフォンは、幸せな夢路についた――。


〜 第六章 了 〜


作品名:第六章 飛翔の羅針図を 作家名:NaN