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記憶のない海

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海は嫌い
あの人を思い出すから

海は嫌い
あの人を思い出せないから

手に持つ携帯電話
約束した時刻通り着信する

振動を続ける携帯電話
震える指で通話ボタンを押す
頬に掛かる髪をかき上げ、耳元に押し付ける
あの人の声が波音にかき消されないように

「もしもし」

   ーもしもしー

あの人の声に雑じって電話口から
似つかわしくない陽気なラテン系音楽が流れてくるのはご愛嬌だ

目を覚ますとあの人はいなかった
事故の前から打診されていた海外支店への単身赴任

一応、私たちは新婚なんだけど

勿論、それなりの配慮もあったし妻の入院という決定打を受けて
「白紙撤回」を申し出る上司の御厚意を丁重に断り
直線距離にして5830海里、離れた場所へとあの人は旅立って行った

流石に会社内は炎上したそうだが、そらそうだ
何処の世界に死ぬ程の大怪我をして未だ入院中の愛妻を置いて
しかも実家の両親に世話を丸投げする夫がいるんだ、と

見舞いに訪れた上司は一通り説明すると
ベッドに横たわる自分と付き添いの両親に平身低頭、謝った
「いえいえ、娘婿の決めた事ですから」と親も頭を下げる

それでもペコペコする上司に親も同様、ペコペコする
私は事情を説明しないあの人もあの人で困ったもんなんだけど
そこは敢えてなにも言わずに、あの人らしいと結んだ

「来月は帰れそう?」

   ー今の仕事が一段落ついたらー

いつもの会話
いつもの会話なのに
いつものように他愛ない会話を辟易するまでしてやろうと思ったのに

   ーどうした?ー

「どうもしない、けど」
「今日はあなたが話し手、私は聞き手」

   ーえ?ー

電話口から困却するあの人の様子が窺えて少し笑える
短い沈黙の後
 
   -じゃあ、聞いてくれー

「なに?」

   ー記憶のない、海ー

「え?」

   -太平洋の事を此処の人たちはそう呼ぶんだそうだー

   -海はあまりに広く一切の記憶や信条を持たないー
   -過去にどんな辛いことがあろうとー
   -それを捨てて未来を信じていこうというー
   -前向きな気持ちからー

   -そう呼ぶそうだよー

あなたの言葉に私は頷く
頷いたところであなたに伝わる訳ないのに今は頷くことしか出来ない

海は嫌い
あの人を思い出すから

海は嫌い
あの人を思い出せないから

細波立つ、海面
魚鱗のように散らばる光が眩くて私は目を開けていられない

嗚咽が漏れる
慌てて唇を噛み締め押し殺す
それでも震える私の息遣いで察したのか、あの人が続ける

   -聞いてくれー

   -いつか君が目にする海に色がついたらー
   -目の覚めるような、真っ青な色がついたら会いに行くー

   -必ずー

空と海の境界線
水平線の遥か、ストロボのような朝日が昇る

白白しい
白紙の世界

瞼を閉じる
吹き抜ける海風はあの人の言う、私の匂い
作品名:記憶のない海 作家名:七星瓢虫