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新しい世界への輪廻

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 ショックなことというのは、忘れてしまって思い出すことのできないほどの大きなものなのだろう。そんなものを思い出そうとするなどというのは、藪の中のヘビをつついて、無理におびき出すようなものだ。何かの理由が存在し、ヘビが出てきても、絶対に安全だという確証がなければできることではない。それを思うと、今自分の頭の中が淡々としているのも分かる気がしていた。
 しかし、逆に考えれば、ショックなことが起こる前の自分はきっと、
――何か熱中できるものがあり、それ以外のことはすべてが付録にしかすぎない――
 と思える何かを持っていたのではないかと思う。
 今までに何か熱中できるものがあったという記憶はなかった。何かに熱中したいという意識もない。中学時代に親友とぎこちなくなるようなことがなければ、
――ひょっとすると高校生になってから、何か熱中できるものができたのではないか?
 と考えることもできるが、今の私にはそれを思い図ることはできなかった。
 いまさら中学時代のあの時のことを思い出したくもなかった。
 別に逃げているわけではない。淡々と生きている中でも、
――自分が逃げているのではないか?
 と考えたことがなかったわけではない。
 しかし、そのことを考えるということは、マイナス思考であるという思いに至るのだ。マイナス思考に至るのであれば、それは逃げていることであり、考えることも逃げになってしまうのであれば、
――進むも戻るも同じ道――
 だと思えば、最初から考えない方がいい。それこそ余計なことなのだ。
――余計なこと?
 淡々と生きるきっかけになった感覚は、
――余計なことをしたくない――
 という思いからだった。
 淡々と生きることを選んだ以上、余計なことをすることが今の自分の一番の間違いだと考えれば、逃げなどという思いは抱かないに限ると思った。
 ただ、私は、
――何か熱中できることを作りたい――
 という思いはあった。
 一人でいることを選び、孤独であっても、寂しさを感じたくないという思いが頭の中にあった。
 今は、孤独であっても寂しさは感じていないが、これからもずっとこのまま行けるかどうか自信があるわけではない。そんな時にどうすればいいかと考えた時、真っ先に浮かんだのは、
――何か熱中できることを持っておきたい――
 という思いだった。
 もちろん、誰か他人が関わることは避けるのが大前提だった。ただ、熱中できるものができれば、その後で誰か他人と関わることがあっても、別に構わないとも思えた。その人からその熱中できることを邪魔されさえしなければ、別に問題はない。優先順位である熱中できることができれば、そこから先は、一旦頭の中をリセットできる気がしたのだ。
 いろいろ考えてみたが、なかなか思いつくものではなかった。女の子なのだから、手芸や料理など、やろうと思えばいくらでもありそうな気がするのだが、どれもピンとこなかった。
 実際に、手芸や料理に興じてみたこともあったが、やってみると面白いのは面白いが、本当は湧いてくるはずの達成感が湧いてこなかった。その代わりに沸いてきたのは、虚脱感のようなもので、
――完成させても、それをどうすればいいというのだろう?
 本当なら、誰かのために作るというのが手芸や料理を趣味にしている人の目的なのだろう。相手が決まっていなくても、
――まだ見ぬ誰かのために――
 と思うだけで一生懸命になれるのが、趣味の醍醐味、そこには、
――健気さ――
 というものが潜んでいるに違いない。
 やはり誰かのためにするための趣味は自分には向いていないと思った私は、次に考えたのが、
――文章を書くことだった――
 小説のような大げさなものはできるはずもない。さらに、俳句や短歌、詩歌のようなものも、嫌いではないが、言葉遊びという行為が、どこかわざとらしさのようなものを感じさせ、それが自分の偏見であり、歪んだ感情であることは分かっていたが、
――できないものはできない――
 という感覚から、断念せざるおえなかった。
 考えてみれば、淡々として生きているのである。別に気合を入れる必要もないと考えると、一番簡単なものがあることに気が付いた。
――そうだわ。日記をつければいいのよ――
 その日にあったことをそのまま書けばいいだけだ。別に飾ることもなく、事実だけを書いて、書き足したいことがあれば、その時に付け加えるのは別に自由である。これほど簡単に思えるものもないだろう。
 実際にやってみると、思ったよりも楽しかった。
 最初は何が楽しいのか分からなかった。ただ毎日判で押したように、その日のことを少しだけ書いていくだけだった。しかも、毎日書き続けなければ意味がない。その思いがあればあるほど、一日でも書かなかったりすると、その次に書くという気持ちが急激に失せてしまうということは想像がついた。
――日記をつけるのって、煩わしい――
 という思いが頭の中になかったわけではない。しかし、それよりも、
――継続は力なりって本当のことだったんだ――
 という思いの方が先だった。
 それも一瞬の差で感じたことであり、その一瞬が運命を分けたと言っても過言ではない。この思いを私はしばらく忘れることはなかったのだ。
 私は、自分が忘れっぽい性格だという自覚は子供の頃からあった。それが実際に意識するようになったのが明確にいつ頃のことなのかというとハッキリはしないが、親友がいた頃も忘れっぽい性格だったという意識があったような気がするので、中学生以前だったことは間違いないようだ。
 日記をつけようと思った理由の一つに、自分の忘れっぽい性格があったからかも知れない。ただ、日記をつけようと考えた時期がもう少し遅かったら、長続きはしなかったかも知れない。なぜなら、自分が次第に現実的なことを避けようとするようになってきたことを意識するようになったからだった。
 日記を読み返すことは時々あった。日記を読み返すのも楽しいもので、
――あの時、こんなことを考えていたんだ――
 という覆い、逆に、
――こんなことを考えていたから、あの頃はこんなことがあったんだ――
 と、日記を見て、それを書いた頃の気持ちに戻ることができるからだった。
 楽しいこともあれば、本当なら思い出したくないと思うこともあった。だが、日記を読み返していると、楽しいことでも、思い出したくないことであっても、思い出すという行為自体に嫌な気はしなかった。そう思うと、
――やっぱり日記をつけるのって楽しいわ――
 と感じるようになっていた。
 日記をつけていると、次第に自分の文章力がついてきているような気がした。元々、作文など大嫌いで、実際に作文の授業で、提出した作文の点数は最悪だった。実際に読み返してみると、同じことを繰り返して書いていたり、肝心なことが書かれていなかったりして、支離滅裂な文章に、顔を赤らめるほどだった。そんな私がどうして日記をつけようなどと思ったのか、その時の心境を想い図ることはできないでいた。
 日記をつけていると、どんどん文章が上手になってくるのが自分でも分かってきた。その証拠が、
――何度でも読み直したい――
作品名:新しい世界への輪廻 作家名:森本晃次